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2007/11/28(水) 21:00:00 [歴史関連資料]


「水一杯」を英霊に捧ぐ

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火山も『いおうとう』島名と統一へ 気象庁検討
 国土地理院が六月に「いおうじま」から「いおうとう」へ呼称変更した小笠原諸島・硫黄島(東京都小笠原村)。一方で気象庁は火山名で「いおうじま」と呼び続け、ちぐはぐな状態になっているが、同庁も呼称変更の検討を始めた。近い将来、島名も火山名も「いおうとう」に統一されることになりそうだ。
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 戦前の旧島民は「いおうとう」と呼んでいた。太平洋戦争での激戦を経て戦後統治した米国は「Iwo Jima(いおうじま)」と称し、日本復帰後も「いおうじま」が一般的となった。だが、旧島民の「いおうとう」への強い思いから、小笠原村が地名修正を要望。国土地理院は海上保安庁と協議の末に六月十八日、呼称を「いおうとう」に変更した。東京新聞 8月27日付記事より参照のため引用。/写真は硫黄島(読者提供)

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ひと柱でも多くの遺骨の帰国を

 この硫黄島でも、今もなお同島に眠る多数の遺骨。ひと柱でも多く、故郷・日本に帰還できることを願う。
読者からご提案いただいた「コップの水一杯」を運動に紹介し、気持ちの上だけでもみなさまにお願いし、小稿を再掲する。敬礼。
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本土を1日でも長く守るために-すべての可能な努力を

 1944年夏、マリアナ諸島を攻略した米軍は、同年11月からB-29による日本本土に対する長距離爆撃を開始。航路の中間地点にある硫黄島(いおうじま)は、米軍にとって、本土への空襲を本格化するために、どうしても抑えたい重要な島であった。


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硫黄島の位置Wikipedia)
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 作戦開始を間近に控えた1945年2月16日。「硫黄島は攻略予定は5日間」。記者会見でスミス中将は説明している。3昼夜におよぶ激しい爆撃で、米軍が同島に投じた爆弾の量は700トン。砲弾は5000トンにもおよんだ。物量に圧倒した先制攻撃の後に、米軍は硫黄島への上陸を開始。

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3昼夜にわたる攻撃が加えられた(記録映画より)
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 しかし、そこから日本軍の反撃が始まった。同島の地下には、栗林忠道中将の発案により地下壕(全長18キロ)が網の目のように構築され、その中に、激しい砲撃を耐えた日本軍が待ち構えていたのである。米軍の目算では「5日間」で終わるはずだった同島の攻防は、実に36日間以上におよび、米軍は日本軍を上回る損害を被った。


 日本本土に対する米軍の無差別爆撃は、軍需施設を狙ったものではなく、明らかに非武装の民間人を標的としていた。戦前の渡米経験から米国をよく識り、空襲激化の状況を知悉(ちしつ)していた栗林中将は、この米軍の本土侵攻を1日でも遅らせたい。家族や子供たちの平安を1日でも長く、との思いを強くしていた。

 この決戦の前年に、父島へ赴任した栗林中将は戦況を詳細に調査し、米軍は硫黄島へ進攻すると判断。当時は無防備に等しかった硫黄島へ司令部と第109師団を移動。すでに、圧倒的な戦力で制空権と制海権をほぼ手中に収めていた米軍に対し、硫黄島を防戦の拠点と決めたのであった。

 どうすれば米軍の侵攻を遅らせることができるか。それは米軍の思惑を覆(くつがえ)す「島の要塞化」であった。栗林中将の才智と、同中将のもとに士気上がる守備隊が可能な限りの努力を尽くし、短期間の内にその構想を実現し、持てる戦力のすべてを尽くし、徹底的な持久抗戦を貫いたのであった。

 この大規模な地下陣地の構築と戦力の合理的な配備によって、補給が途絶えた中で、物資、兵力で3倍以上に達する米軍に対して善戦。異例の大打撃を与え、本土進攻を遅らせたのであった。

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本部玉砕後も続いた戦闘

 地下壕の中は、折からの火山熱により、摂氏40度を超える暑さであったという。すでに補給がなく、ゆえに食料も水も底を尽き、この限界を超えた状況の中で、米軍の侵攻を1日でもより長く阻止するために、日本兵士は闘ったのである。

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栗林忠道中将(記録映画より)
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 そして、ついに同年3月17日、栗林中将は東京の大本営へ訣別電報を送信。


 『戦局遂に最期の関頭に直面せり、十七日夜半を期し小官自ら陣頭に立ち皇国の必勝と安泰を念願しつつ全員壮烈なる攻撃を敢行する。敵来攻以来想像に余る物量的優勢をもって陸海空より将兵の勇戦は真に鬼神をもなかしむるものがあり』(以下略)と打電。

 補給路を断たれた中で、また、砲弾も尽きる中での戦いであった。同26日、日本軍の最後の反攻が行われ、栗林大将、市丸少将以下、数百名の残存部隊がアメリカ軍陣地へ攻撃をかけ、日本軍の組織的な戦闘はここで終わった。しかし、島北部の残存兵力による散発的な戦闘はなおも続き、6月末まで戦いは続いた。まさに62年前のつい先日まで、硫黄島には、母国への攻撃阻止を最後まで願い、日本兵士の戦いが続いていたのである。

 完全終結までに、日本軍の戦死者は20,129名(島民から徴用された軍属82名)。生存者1,033名は米軍の人道的救護のもとに保護された。一方、米軍の戦死者は6,821名。負傷者は21,865名を出した壮絶な戦いであった。
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「一杯の水」運動の提案

 読者から次のコメントをいただいので紹介する。(以下、引用)

 関西テレビのナマでもズバリ!という番組の中で青山繁晴氏が「硫黄島は生きるヒントを語る」というテーマでお話をされていました。氏が特別許可を得て硫黄島に降り立ち取材をした中で、見たもの、感じたこと、その他の取材内容に関して、涙ながらにお話されています。(中略)

 遺骨収集によって帰国出来た兵士は八千人。残り、一万人の英霊たちはいまだ帰国出来ていません。

 硫黄島の兵士たちは、アメリカ軍による本土空襲が、日本の軍事施設や工場を爆撃するためのものではなく、実は日本の女性と子供たちを殺すことを目的としていたことを知り、栗林中将の下、地下壕を堀って立てこもり、少しでも長く戦おうと硫黄島を死守していたそうです。そうすればその分、本土の女性や子供たちが命をつなげることが出来るからでした。

 青山氏はまずは私たち国民一人一人が、私たちを守るためだけに死闘の限りを尽くして亡くなっていった英霊の方々のために、一杯の冷えたお水を供え、硫黄島に思いを抱いて欲しい。そして、それがゆくゆくは遺骨収集の国民運動になって欲しいと願っています。

(以上、引用)
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 ご投稿に感謝する。すべてが尽きた中で、なおも母国・日本を思い、家族と女性、子供たちを守らんと死力を尽くした兵士方々は、地獄のような暑さと飢え、渇(かわ)きととも闘っていたのである。時と場所を超えて「一杯の水」を捧げる。この心を大切にしたい。

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硫黄島の地下壕跡(記録映画より)
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 「冷えた一杯の水」。勇士はどれほど口にしたかったことか。その思いに敬礼を捧げ、小稿に感謝を捧げ、そして、一杯の水を捧げる。

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【筆者記】

 かけがえのない命と引き換えに、国を守り育てた先人英霊あればこそ、今の日本がある。日本人として生まれ、日本の「飯」で育ち、日本の「言葉」で学び、この国土に生きて来た。無数の先人が命と引き換えに守り育てて来たこの「日本」があればこそ、今の自分自身の存在がある。先人、父母に敬意と感謝を捧げる。そのごく自然な感謝が、日本人の尊厳と誇りの底流にあるべきである。
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 読者のみなさまにはお忙しい中、ご訪問をいただき感謝しています。ここに、新たに記事をアップさせていただけたことを有難く思います。 拙い記事に対し、有志のみなさまより、内容を的確にフォローいただくコメント、身を案じてくださるコメントに感謝します。

 一日一日を大切に、みなさまと共に考え、真実を共有できればと願っています。事実を指摘する批判は「悪口」ではなく、真実を掘り出し、その共有のために不可欠です。また、真実の共有はすべての第一歩です。正論は真実から生まれ、良識の声は必ず力になる。共に闘ってくださるみなさまに心より感謝します。



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2007/11/25(日) 13:49:53 [歴史関連資料]


パラオの桜と英霊

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紺碧の空と海に囲まれたパラオ
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南海の親日国家

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日本の国旗を模したパラオの国旗
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 恐縮だが、小稿について、時折再掲させていただく。良識によって日本が守られ、南海の島に眠る英霊の安らかなることを願う。

 パラオ共和国(Republic of Palau)(現地では「ベラウ」と呼称)は、南北およそ640Kmに渡って散在する200以上の島々を統括した国家である。このうち9島のみに人が居住し、残りの島々は無人島である。人口は 20,044人(2006年 太平洋共同体事務局)。人口の7割がパラオ人で、残り大半はフィリピン人で占められ、支那、米国、日本などからの移住民も含まれている。
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パラオが親日国家である事由

 国内の言語は、基本的にパラオ語と英語だが、現地の年配の人々には、戦時中に日本語による教育を受けていたために流暢な日本語を話す人が多い。日本語がそのままパラオ語として使われている言葉が非常に多い。たとえば「はい」「扇風機」「大丈夫」「浴衣」「どうぞ」「大統領」等々。

 パラオは、第一次世界大戦の戦後処理、そのためのパリ講和会議によって、日本(大日本帝国)の委任統治領になった。

 当時の様子は、「コロールには南洋庁の支庁を置かれ、パラオは周辺諸島における統治の中核的な島となり、多くの日本人が移住(最盛期には2万5千人ほどの日本人が居住)した。このため、学校や病院・道路など各種インフラの整備も重点的に行われ、1920年代頃になるとコロールは近代的な町並みへとその姿を変貌させていった。また日本統治の開始にともないドイツ語から日本語による学校教育が先住民に対しても行われるようになった」(
Wikpedia)とある。


 日本統治の時代は、現地民に愛された時代であった。礼儀正しさと節度、道徳心。他を思いやる心。それらの悉(ことごと)くが、今日の民族性に引き継がれ、反映されている。現地を訪れた研究者によれば、パラオの国定教科書では8パーセント近くを日本統治時代に充てており、「日の丸の旗のもとに」との題名が付けられた章もあるそうだ。

 日本の統治時代は、パラオの歴史の中で最も輝かしく、現地の人々の心に残る時代であった。そして、パラオで今も語り継がれる「ペリリュー島の戦闘」があった。

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現地民間人に死者を出さなかった戦い

 パラオの南端部にペリリュー島がある。面積は、20平方キロメートルほどの珊瑚礁の島だが、フィリピン防衛のために重要な拠点であった。その島に、昭和19年(1944年)9月、米軍が攻撃を開始。米軍の戦力は圧倒的に勝っていた。日本軍は、守備隊が約1万2000名。だが、米軍が制海権を制空権を握り、15倍近くの兵力を投入。航空機、戦車、重火器のいずれの面でも、100倍、1000倍の軍事力をもって同島の攻撃に臨んだのである。

 米軍は「攻撃は2、3日で終了」と予測。退路を断たれた日本軍は、武器と弾薬、食料の補給路は無かった。いよいよ、9月12日に始まった米軍の攻撃。だが、日本軍はこれを持久戦に持ち込み、73日間にわたってペリリュー島を勇敢に守ったのである。10月30日には、攻撃に臨んだ「米軍海兵第1師団を全滅判定(損失60%)に追い込み、陸軍第81師団へ交代する場面も現れた」(Wikipedia)。米軍は日本軍に倍する犠牲者を出したのであった。

 しかし、戦闘が終局に達した11月24日。生き残った将兵はわずか60人足らずになっていたという。「ついに司令部陣地の兵力弾薬もほとんど底をついたため、司令部は玉砕を決定、地区隊長中川州男大佐と師団派遣参謀村井権治郎少将、飯田義栄中佐の割腹自決の後、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が送られ、翌朝にかけて根本甲子郎大尉を中心とした55名の残存兵による「万歳突撃」が行われた」(Wikipedia)。

 壮絶で長い戦闘が繰り広げられたにもかかわらず、このペリリュー島の民間人には1人も犠牲者が出なかった。戦局を鑑(かんが)みた司令部の配慮により、すべての島民のパラオ本島他への移住をほぼ完了させていたからである。残った島民も疎開させるため、戦火をかいくぐるように本島へと送り出している。

 「毎日新聞」(記載年月日不肖)掲載と伝えられるが、この時の様子を記した「コラム」がネットで紹介されている。「毎日新聞」らしからぬ感動的な「コラム」だが、このような状況が実際に、随所にあったと感じ、小稿に紹介する。

遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。
「あそこでみんな死んでいったんだ・・・」 
沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。
太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。
老人は村の若者達と共にその作業に参加した。
日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。


やがて戦況は日本に不利となり、
いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。
仲間達と話し合った彼は代表数人と共に
日本の守備隊長のもとを訪れた。自分達も一緒に戦わせて欲しい、と。


それを聞くなり隊長は激高し叫んだという
「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」  
日本人は仲間だと思っていたのに…みせかけだったのか
裏切られた想いで、みな悔し涙を流した…


船に乗って島を去る日 日本兵は誰一人見送りに来ない。
村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。


しかし船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきた。
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。
先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。その瞬間、彼は悟ったという。
あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと・・・。


(以上、引用)
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 戦闘が終わったペリリュー島は、米軍の激しい爆撃で変形していた。この珊瑚の島に戻った島民たちは、累々と散らばる日本兵の遺体に涙を流し、日本兵の墓地を作った。この墓地は島民の手によって今も整然と維持され、その英霊の遺徳が讃えられている。

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兵士の遺徳を讃える歌

 パラオに1981年に憲法が制定・発布された。この時に「日章旗」を模した国旗とともに、ペリリュー兵士の歌も作られた。ペリリュー兵士とは日本兵を意味している。題して「ペ島の桜を讃える歌」。国のために尊い命をささげ、死しても島民を守り抜いた日本兵士を桜に譬(たと)え、その遺徳への感謝をつづった歌である。

 作詞者はオキヤマ・トヨミ氏、ショージ・シゲオ氏。日本人ではなく、現地の人々である。日本を慕って止まない心。それが国民の8割以上が、姓名のいずれかに日本名を名乗る習慣となった。両氏の名前は、その事実を物語っている。

  一
  激しく弾雨(たま)が降り注ぎ
  オレンジ浜を血で染めた
  強兵(つわもの)たちはみな散って 
  ペ島(じま)は総て墓地(はか)となる


  ニ
  小さな異国のこの島を
  死んでも守ると誓いつつ
  山なす敵を迎え撃ち 
  弾(たま)射(う)ち尽くし食糧(しょく)もない


  三
  将兵(ヘいし)は桜を叫びつつ
  これが最期の伝えごと
  父母よ祖国よ妻や子よ
  別れの桜に意味深し


  四
  日本の桜は春いちど
  見事に咲いて明日(あす)は散る
  ペ島(じま)の桜は散り散りに
  玉砕(ち)れども勲功(いさお)は永久(とこしえ)に


  五
  今守備勇士(もののふ)の姿なく
  残りし洞窟(じんち)の夢の跡
  古いペ島(じま)の習慣で
  我等勇士の霊魂(たま)守る 

  六
  平和と自由の尊さを
  身を鴻(こな)にしてこの島に
  教えて散りし桜花
  今では平和が甦る

  七
  どうぞ再びペリリューヘ
  時なし桜花(さくら)の花びらは
  椰子の木陰で待ち佗(わび)し
  あつい涙がこみあげる    


  八
  戦友遺族の皆さまに
  永遠(いついつ)までもかわりなく
  必ず我等は待ち望む
  桜とともに皆さまを


(以上、詩文引用)
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 パラオには桜が無い。だが、現地の人々は、当時未だ見ぬ桜の美しさを日本人の美徳と尊敬し、憧れの念を桜に譬えて慕っている。

 つぼみが膨らむ開花前の健気。咲き始める華麗さ。満開の美しさ。そして、いさぎよく散り行く誉れ。

 今も珊瑚の島に眠る英霊のご冥福を心よりお祈し、小稿を捧げる。
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【筆者記】

 パラオの国旗は、太平洋に浮かぶ月を象(かたちど)っている。なぜ「月」なのか。現地を訪れた研究者(筆者の知人)によれば、太陽(日本)があってこそ「月の輝きがある」との意味が込められているとのことだ。中心から微妙にズレている。これは「同じでは日本に失礼だから」とわざと中心をはずした、との有名なエピソードがある。

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パラオの国旗成立の理由(現地 Clickで拡大)
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 一部の他国が、捏造をもとにいかに非難しようとも、建国以来、幾多の先人、幾多の英霊がもたらした恩恵によって、日本の今日がある。先人、英霊が自らの命と引き換えに、守り育てた国土に我々は生まれ、生活している。

 そして、我々が今守るべきもの、後代に伝えるべきものは何か。その明確なる答えを、先人、英霊は教えている。

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2007/06/23(土) 04:55:57 [歴史関連資料]

韓国軍は何をして来たか

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女性たちを強姦した後、殺害
  韓国軍は残酷な大量虐殺を行ったため、南ベトナム民族解放戦線(NLF)さえ、できるだけ直接的な交戦は避けようとした程だったと伝えられる。前線もなく、敵が誰なのかもわからないベトナム戦でベトコンの根拠地を捜索、 破壊するという作戦上の名分が老若男女を区別しない虐殺行為を正当化させた。筆者が持っている記録は、その内容が非常におぞましく、詳細に明らかにするもので、負担がなくはなかったが、 その一部をここに紹介する。「ハンギョレ21 1999年 05月 06日 第256号」/写真は同記事より
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韓国軍のベトナム戦争参戦

 有志ブログの多くがあつかわれて来た事柄と思う。真実に取り組み、英邁な論及を尽くす諸氏に敬意を捧げ、小ブログからも小稿を呈する。読者からお知らせいただいたこともあり、小稿では、ベトナム戦争における韓国軍の行為について触れる。

 好き嫌いの感情次元の問題ではなく。特定国の侵蝕を許せば許すほど、日本社会は秩序と国益を喪失し、国民生活も危うくなる。その教訓の一端を、ベトナム戦争、およびその戦後の事例に観ることができる。

 韓国軍のベトナム戦争参戦は昭和39年(1964年)に始まっていた。当初は、医療支援団や教官等、約270名をサイゴンの南のプンタウに派遣。翌1965年2月に、米軍が北爆を開始、次いで米海兵隊が3月にダナンに上陸。それに続き、10月から、韓国軍は1万数千名を派兵して本格的に参戦した。

 以後、19
65年から73年までの間、韓国軍の戦闘部隊約30万名がベトナム戦争に参戦。この過程で、韓国軍は戦死者4960余名、負傷者10余万名を記録。一方、韓国軍が殺傷したベトナム人は4万1450名(公式統計のみ)に上る、と表題記事は伝えている。

 韓国軍の派兵は、米軍に次いで多かった。その理由は、「派兵規模」に応じた「補助金と対米移民枠」を得られたからであった。いわば、韓国にとっては、あからさまな国益を兼ねた参戦であり、しかし、その残虐ぶりは、後に自国のジャーナリズムが報じるようになり、「住民虐殺」と「韓越混血児(ライタイハン)」が問題として問われることになった。
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残虐を極めた韓国軍

 同記事には、『韓国軍は残酷な大量虐殺を行ったため、南ベトナム民族解放戦線(NLF)さえ、できるだけ直接的な交戦は避けようとした程だったと伝えられる』と、特に、掃討作戦における非道の様子を記している。

 同記事は、韓国軍の残虐行為を次のように概略している。

(以下、引用)


 このような捜索掃討作戦は、一次的にじゅうたん爆撃等で作戦地域を公開して、 韓国軍等の地上軍が現場に投入されて村に残っている住民たちを即決処分した後、家を燃やしてブルドーザー等で村全体を押し潰す方式で展開した。生存者の韓国軍に関する証言で共通な点は、 無差別機関銃乱射、 大量殺戮、 妊産婦、 女性に対する強姦殺害、 家屋への放火などだ。生存者の証言を土台に韓国軍の良民虐殺方式を整理してみると、いくつかの共通した類型が現れる。

-住民たち(大部分が女性と老人、 子供たち)を一ケ所に集めた後、あるいはいくつのグループにまとめて、機関銃を乱射して抹殺する。

-住民たちを一戸に追い詰めて銃を乱射した後、家と一緒に死亡者も生存者も全部燃やす。

-子供の頭を割ったり首をはね、 脚を切ったり四肢を切断して火にほうり込む。

-女性を強姦した後、殺害して、 妊産婦の腹を胎児が破れ出るまで軍靴で踏み潰す。

-住民たちを村のトンネルに追い詰めて毒ガスを浴びせて窒息死させる。

 韓国軍の大量虐殺が強行された所では、子供たちの口にキャンディやケーキが含まされていた。老人たちの口にはタバコが咥えられていた場合が多かった。恐らく、村人を安心させながら一ケ所に集めるための手段だったようだ.

(以上、引用)

 以上、ごく一端ではあるが、韓国の雑誌「ハンギョレ21」誌の記者が「自ら取材し、掲載した」とされるの和訳記事から一部を紹介した。
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韓国の謝罪も補償も無し!

 ベトナム戦争の「混血児問題」として知られている事実の中に、上述の「韓越混血児」がある。ベトナム戦争に参戦時に、韓国軍兵士や軍属の韓国民間人が「強姦」「非管理売春」「現地妻の保有」などにより、多くの混血児が生まれ、戦後に放置された問題である。

 『現地妻との間に生まれた混血児の数は、2004年9月18日付の釜山日報の記事によれば、5千~3万人と推定されている』(Wikipedia) 。また。『現時点では、韓国政府から被害者や混血児に対する謝罪や補償は行われていないが、最近、韓国人(父親)が認知しない場合でも、写真など客観的に関係を立証する資料があれば国籍を付与する法案を積極的に検討する事にした』と()ある。実施ではなく「検討」である。

 「謝罪と補償」。その見方にもよるが、速やかにそれらを実行する日本政府の対応とは雲泥の差がある。また、金大中氏(当時・大統領)が訪越(1998年)した折に、戦争当時に、ベトナム人に苦痛を与えたことに対して謝罪した、と伝えられ、その折に、『ベトナムのチャン・ドク・ルオン大統領は、両国は未来志向的に関係を構築していかなければならない」と述べ過去には関心を示さなかった』(同)とあるが、韓国は、直後に謝罪を撤回している。

 韓国にとっては、日本に対する“加害責任”を問い続ける立場から、金大中氏の「謝罪」は外交カード維持のためのポーズではないか、と認識されている。ゆえに、混血児を産んたベトナム女性は、韓国からは補償をまったく受けていない。自国民が犯した罪の謝罪と補償を果たさない韓国。このような国家が、日本に対して“従軍”慰安婦の難題を、しかも捏造をもとに延々と突きつけ、補償せよという資格はないのである。
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韓国軍の従軍慰安婦

 韓国軍には従軍慰安婦が存在していた。その多くの資料を読者からご指摘いただいているので、紹介する。

 先ず、韓国語で書かれた「韓国軍の特殊慰安婦は事実上の公娼 」(仮訳)と題する記事は、論旨が混沌としているが、韓国独自の従軍慰安婦が存在していたことを記している。。朝鮮戦争当時(1951~54年)、云く、『韓国軍が 1951年頃から 1954年まで 「特殊慰安婦」という名前で、固定式あるいは移動式の慰安婦制度を取り入れて運用したのは、否認することができない歴史的事実である』と。

 また云く、『特殊慰安婦実績統計表は、 1952年度に 4ヶ所で編成された慰安婦 89人が年間 20万4560人の兵士を 慰安したと記録している。 慰安婦 1人が一日平均 6~7人の将兵を慰安した。 またチェ名臣・チァギュホン・ギムフィオなど予備役将軍たちも朝鮮戦争期間に経験した慰安婦制度に対して 「言いたくない軍部の恥部だが事実だと証言している』とある。

 何故、事細かに記録が残っているかといえば、韓国が「公娼」と認めていたからである。この点が、「日本軍を真似た」と記述しているが、実質的に、日本軍兵士が相手にした「私娼」とは異なる。つまり、韓国の「特殊慰安婦」こそが真の「従軍慰安婦」であった。同記事の写真をご覧いただきたい。

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捕らえられた北朝鮮の看護婦2名(OhMyNews 2002年2月26日)

 写真のキャプチャには、「朝鮮戦争期間に韓国軍と米軍が逮捕した人民軍看護婦 2人。当時逮捕した北朝鮮女性の一部はレイプされるなど、強制で 慰安婦になった」と。なるほど、お得意とする「強制性」「性奴隷」は韓国の行為であった。
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自国の「恥」を日本に転嫁する韓国!

 同記事には、さらに、『1950年当時医科大学生だった李何某(73) さん(2002年の記事当時の年齢)は、拉致、または強要によって軍隊慰安婦になる所だった。また、他の事で、6月25日当時、ソウルに残り、(北朝鮮の)人民軍に協力したかどで、(韓)国軍に逮捕されたこの李さんは他の女医大生 3人と一緒に引き渡され、部隊の将校 4人の「割当」になった。 この李さんは幸い、自分を可愛想に思ってくれた一将校の助けで釈放されたが、他の 3人はあの時以後二度と(姿が)見られなかった』と。

 北朝鮮(人民軍)の中から捕らえた女性のみならず、自国民の中からも女性を強制的に拉致、逮捕して娼婦にしていたのである。確かに「言いたくない軍部の恥部」であろう。言いたくない代わりに、自国の「行為」と「恥」を日本に転嫁し、「罪」の言い逃れを図っているのである。

 恥知らずな国家である。筆者は学者の端くれであるから、「真実」か「虚構」かで物事を判別する。その判別の目からすれば、韓国という国は「嘘」また「嘘」でグチャグチャに腐り切っている。中共と侮日策動のクラスタを形成して編み出した「虚構」は、たとえ一時的には隆盛を見せても、「真実」をもとにした日本の良識の反撃に遭えば崩壊する運命にある。

 先人英霊に汚名を着せたまま、子々孫々にこの日本国を渡すわけにはいかない。

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【筆者記】

 以上、短稿ながら、韓国軍の暴虐と従軍慰安婦の一端について、先稿をもとに紹介する。日頃、読者のみなさまからいただく真摯なコメント、有意義な情報を有り難く思う。「ご苦労様」とお声をかけていただく時、小稿ながらアップして良かったと思う。感謝する。
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 一日一日を大切に、みなさまと共に考え、真実を共有できればと願っています。事実を指摘する批判は「悪口」ではなく、真実を掘り出し、その共有のために不可欠です。また、真実の共有はすべての第一歩です。正論は真実から生まれ、良識の声は必ず力になる。共に闘ってくださるみなさまに心より感謝します。

国民の手で日本を取り戻しましょう!
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2007/02/24(土) 00:05:22 [歴史関連資料]


“植民地時代”の虚構撤回を 

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保存か撤去か…木浦に残る日本統治期の建築物(上)
 日本統治期の代表的近代都市として成長した全羅南道木浦には、当時の雰囲気を今にとどめる近代建築が数多く残っている。しかし、これを積極的に保存・活用すべきか、撤去すべきかをめぐり、地域の世論が二つに分かれ、最近では「近代文化遺産を積極的に活用した街づくりをすべきだ」という声が少しずつ高まっている。全羅南道木浦市の中心街・務安洞2街の奥に建つ中央教会礼拝堂。この建物は1930年代初めのもので、当初は日本人たちが通う東本願寺木浦別院として使われていた。長方形の石造平屋建で、典型的な日本建築の様式にのっとっている。この建物を中央教会が57年に買い入れた後、現在まで礼拝堂として使われてきた。計画通りならば、この建物は今年上半期中に撤去される。朝鮮日報
Web)(リン切れ) 2007年2月4日付雉より「個」の日記の「事例付記」として参照より
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韓国に提供された建物、施設

 撤去か、保存かの論議が韓国(南朝鮮)各地で起こっているとする記事(朝鮮日報)の一つとして、「全羅南道木浦」に関する記事を参照した。堂々とした建築物である。70年、80年を経てもなお施設として価値を持つ建築物が多い。その証左である。さしたる空襲も受けずに残った「日韓併合」時代に建てられた日本の建造物は、日本の「一地方」となった韓国住民が、日本から手厚く保護された。その事実を物語っている。

  同記事の「下」(Web)(リン区切れ)には、「日本統治期の建築物は都市開発とともに消え、撤去と保存をめぐる対立と摩擦が続いている。例えば、1921年に建てられた東洋拓殖会社木浦支店の建物は「廃墟」のまま放置されていたため、市がいったんは撤去の方針を決めたが、市民社会団体らの保存運動によって何とか撤去を免れた。それが1999年のことであり、現在は近代歴史文化館として活用されている」と有る。

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日本の建造物(朝鮮日報同記事(下)より)
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 続けて、「しかし、1935年に建てられた竹洞教会は撤去の悲運をたどった。木浦市が消防道路建設のため撤去しようとしたところ、保存を求める世論の声が上がったが、2004年に起きた原因不明の出火により結局撤去されてしまった。また同年には、1920年代の建物である東拓官舎(測候洞)も市によって撤去された」と「日韓併合」時代の建物が多数残っていた様子を報じている。

 韓国の反日宣伝、ひいては我が国のメディア、政治家等が用いる“植民地支配”“侵略”は事実ではない。現在の朝鮮半島が「大韓帝国」であった時代に「日韓併合」はあった。1910年8月22日、「韓国併合ニ関スル条約」に基づいて日本が大韓帝国を併合し、朝鮮は正式に「日本国朝鮮地方」となったのである。日本の「一地方」ゆえに、日本政府は莫大な予算を投入し、農奴と乞食が大多数を占めていた朝鮮の近代化に付与したのである。

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明治43年(1910年)「日韓併合」を伝える朝日新聞(当時)紙面

 この「日本国朝鮮地方」には、5000校を超える学校をはじめ、必要な各種設備、医療設備、道路他の多数のインフラを構築したのである。昭和40年(1965年)の「日韓間相互の請求権の破棄」の取り決めにおいて、「両締約国(日韓双方)は、両締約国及びその国民(法人を含む)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」とする戦後の「日韓基本条約」を締結。

 「謝罪」「賠償」する筋合いは全くないのである。まして、同条約の締結に際し、日本国の好意から、この日本統治時代に建設し、空襲も受けずに残ったインフラを代償を求めずに提供している。統治時代に朝鮮半島に資した費用は、時価に換算(試算)すれば約「70兆円にも上る」(国際政治学者・藤井厳喜氏との指摘も有る。
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「日本」に多大な「借り」がある韓国

 韓国に対して多大な「貸し」はあるが、「借り」は一切無い。それが韓国における日本統治の歴史である。両国同意の上で条約まで締結した上での政策であり、朝鮮人が自分たちで選んだ道であった。

 当時は、国力の上からも、半島独自には存続し得ない状況にあり、近隣国との併合が残された選択肢であった。もし、韓国が併合の相手に清国を選んでいれば、清がその後に滅んだ経過から、半島に大きな混乱が起きていたであろう。ロシアを相手に選んでいれば、ロシアの帝政もその後倒れた経過から、半島全体が共産主義国家になっていたであろう。否、清を選んでいた場合も、結果的にはロシアの場合と同じであったのかもしれない。

 言い換えれば、日本にとって、膨大な労力と費用を投じるのみで何のメリットも無く、「支那、ロシアから隣国の韓国を保護する」以外に目的はなかった。その当時を“植民地統治”と韓国は主張しているが、仮に、百歩千歩譲って「植民地統治」であったとしても、さしたる天然資源も無く、農奴と野盗が大半を占め世界一の極貧国であった「半島」のこと。そこから殊に搾取するものは無かったのである。

 「日韓併合条約」のもとに、こうした資金や資材などの「物的支援」に終わらず、「人的支援」「技術支援」も同時に行った時期が「日韓併合」時代である。韓国にもたらされた多大な近代化ともに、近代教育の中でハングルを必修と定め、文字を用いる文化を提供。人は国家の基本として重視し、医療と衛生環境を飛躍的に向上させ、半島の人々の平均寿命の伸長に貢献したのである

 この日本は献身的な努力と貢献により、また、戦後にも提供した多大な支援により、朝鮮半島には“奇跡”と呼ばれるほどの発展をもたらされたのである。自己都合の反日宣伝のために、実際の「歴史」をも塗り替えようとする韓国こそ、自国に「歴史問題」を深く問うべきである。「恩義を仇で返す」。その国民性は、同国の反日プロパガンダを打ち破る上で明確に認識しなければならない病巣と謂える。事実史と共に世界へ伝え行こう。
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【筆者記】

 国会審議の中でも「植民地時代」の表現が頻発している。日本の国会である。厳に慎むべきだ。
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