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2014/08/11(月) 00:31:00 [武士道に学ぶ]

敷島の武士道 一期一会(1)

 「一期一会」は多くの方がご存知と思う。ゆえに由来と説明は省くが、敷島の「人の道」をなす重要な一つととらえ、事例を通じて若干だがメモに記してまいりたい。なお。事例の参照はその説明のためでありもとより悪意の類ではない。

 先年、瑣末な身へ「支那製の餡子かもしれませんが、召し上げっていただきたい」(要旨)と和菓子をわざわざ携えてくださった方がおられた。無論、ご本人は悪意ではないにせよ、お心には感謝するとしても、やはり贈り主が「得体の知れない」ものを差し出すに等しく、無礼に当たる事例と謂わざるを得ないのである。

 「一期一会」とは、結果的にそれが最期の挨拶、出会いになっても身に悔いの残らぬよう、流儀にあらぬ恥や遺恨を残さぬように接することを本分とするのであって、拙き身でさえ贈答をなす場合も、その時の分相応の最善の、言い換えれば自らもが食さぬ、使用せぬ最善のものを選んで来たつもりである。以って、上記のような戯けをなしたつもりも無い。

 メンタリティの朝鮮化が横行する昨今に問いたい一つである。(つづく)

平成26年8月11日
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2014/08/10(日) 23:00:00 [武士道に学ぶ]

敷島の武士道  遺書(1)

 メルマガに「遺書」と題するテーマを記したことが有ったが、あなたは「なぜそう死に急ぐのか」との反応も頂戴した。もっとも「遺書」とした事由は、それが敷島人の日常に在るべきたしなみの一つであるためで、「死に急ぐ」云々の悲観的な感情によるものでは一切ないことを先ず記しておきたい。

 たとえば、愚生の学部時代の恩師は、常に遺書を準備し事有るごとに改訂をなす人であった。その主旨は、無論、自身が無事で日々新たに生きることが出来れば「無事これ名馬」だが、万一の事故などで不意に命を終える可能性も「ゼロ」とは謂えない。そこで、その万一の時に、周囲に迷惑や混乱が起こらないようにと。他を思慮し、憂いなきように準備しておく「たしなみ」の一つが遺書なのである。

 ちなみに、学部時代の恩師は四半世紀以上を経た今もご健在であり、しかし、ご自身の遺書の改訂版を今も更新されていると伺う。

 さらに一つ謂えることは、「死」は誰人にも訪れるのであって、身の「死」を意識してこそ「生」が充実するということだ。己は永遠に死なない存在と錯覚しているかの我欲や、権利の主張が横行する昨今に問いたい一つである。(つづく)

平成26年8月10日
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2008/05/07(水) 18:29:48 [武士道に学ぶ]

パラオの桜と英霊  


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紺碧の空と海に囲まれたパラオ
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南海の親日国家

 小稿について、「武士道に学ぶ」資料として掲載させていただく。時節に照らし、いかなる「大国」にも屈しない心。国思う心の強さ、日本人の底力を、今一度、ここで見直すべき時と思うゆえである。良識によって日本が守られ、南海の島に眠る英霊の安らかなることを願う。

 パラオ共和国(Republic of Palau)(現地では「ベラウ」と呼称)は、南北およそ640Kmに渡って散在する200以上の島々を統括した国家である。このうち9島のみに人が居住し、残りの島々は無人島である。人口は 20,044人(2006年 太平洋共同体事務局)。人口の7割がパラオ人で、残り大半はフィリピン人で占められ、支那、米国、日本などからの移住民も含まれている。
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パラオ地図(パラオ政府観光局)
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パラオが親日国家である事由

 国内の言語は、基本的にパラオ語と英語だが、現地の年配の人々には、戦時中に日本語による教育を受けていたために流暢な日本語を話す人が多い。日本語がそのままパラオ語として使われている言葉が非常に多い。たとえば「はい」「扇風機」「大丈夫」「浴衣」「どうぞ」「大統領」等々。

 パラオは、第一次世界大戦の戦後処理、そのためのパリ講和会議によって、日本(大日本帝国)の委任統治領になった。

 当時の様子は、「コロールには南洋庁の支庁を置かれ、パラオは周辺諸島における統治の中核的な島となり、多くの日本人が移住(最盛期には2万5千人ほどの日本人が居住)した。このため、学校や病院・道路など各種インフラの整備も重点的に行われ、1920年代頃になるとコロールは近代的な町並みへとその姿を変貌させていった。また日本統治の開始にともないドイツ語から日本語による学校教育が先住民に対しても行われるようになった」(
Wikpedia)とある。

 日本統治の時代は、現地民に愛された時代であった。礼儀正しさと節度、道徳心。他を思いやる心。それらの悉(ことごと)くが、今日の民族性に引き継がれ、反映されている。現地を訪れた研究者によれば、パラオの国定教科書では8パーセント近くを日本統治時代に充てており、「日の丸の旗のもとに」との題名が付けられた章もあるという。
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パラオ国旗の由来

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日本の国旗を模したパラオの国旗
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 パラオの国旗は、太平洋に浮かぶ月を象(かたちど)っている。なぜ「月」なのか。太陽(日本)があってこそ「月の輝きがある」との意味が込められているとのことだ。中心から微妙にズレている。これは「同じでは日本に失礼だから」とわざと中心をはずした、との有名なエピソードがある。

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パラオの国旗成立の理由(現地 Clickで拡大)

 日本の統治時代は、パラオの歴史の中で最も輝かしく、現地の人々の心に残る時代であった。そして、その国旗の由来にも綴(つづ)られ、パラオで今も語り継がれるペリリュー島の戦闘があった。
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現地民間人に1人も死者を出さなかった戦い

 パラオの南端部にペリリュー島がある。面積は、20平方キロメートルほどの珊瑚礁の島だが、フィリピン防衛のために重要な拠点であった。その島に、昭和19年(1944年)9月、米軍が攻撃を開始。米軍の戦力は圧倒的に勝っていた。日本軍は、守備隊が約1万2000名。だが、米軍が制海権を制空権を握り、15倍近くの兵力を投入。航空機、戦車、重火器のいずれの面でも、100倍、1000倍の軍事力をもって同島の攻撃に臨んだのである。

 米軍は「攻撃は2、3日で終了」と予測。退路を断たれた日本軍は、武器と弾薬、食料の補給路は無かった。いよいよ、9月12日に始まった米軍の攻撃。だが、日本軍はこれを持久戦に持ち込み、73日間にわたってペリリュー島を勇敢に守ったのである。10月30日には、攻撃に臨んだ「米軍海兵第1師団を全滅判定(損失60%)に追い込み、陸軍第81師団へ交代する場面も現れた」(
Wikipedia)。米軍は日本軍に倍する犠牲者を出したのであった。

 しかし、戦闘が終局に達した11月24日。生き残った将兵はわずか60人足らずになっていたという。「ついに司令部陣地の兵力弾薬もほとんど底をついたため、司令部は玉砕を決定、地区隊長中川州男大佐と師団派遣参謀村井権治郎少将、飯田義栄中佐の割腹自決の後、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が送られ、翌朝にかけて根本甲子郎大尉を中心とした55名の残存兵による「万歳突撃」が行われた」(
Wikipedia)。


 壮絶で長い戦闘が繰り広げられたにもかかわらず、このペリリュー島の民間人には1人も犠牲者が出なかった。戦局を鑑(かんが)みた司令部の配慮により、すべての島民のパラオ本島他への移住をほぼ完了させていたからである。残った島民も疎開させるため、戦火をかいくぐるように本島へと送り出している。

 「毎日新聞」(記載年月日不肖)掲載と伝えられるが、この時の様子を記した「コラム」がネットで紹介されている。「毎日新聞」らしからぬ感動的な「コラム」だが、このような状況が実際に、随所にあったと感じ、小稿に紹介する。

遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。
「あそこでみんな死んでいったんだ・・・」 
沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。
太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。
老人は村の若者達と共にその作業に参加した。
日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。


やがて戦況は日本に不利となり、
いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。
仲間達と話し合った彼は代表数人と共に
日本の守備隊長のもとを訪れた。自分達も一緒に戦わせて欲しい、と。

それを聞くなり隊長は激高し叫んだという
「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」  
日本人は仲間だと思っていたのに…みせかけだったのか
裏切られた想いで、みな悔し涙を流した…

船に乗って島を去る日 日本兵は誰一人見送りに来ない。
村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。


しかし船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきた。
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。
先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。その瞬間、彼は悟ったという。
あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと・・・。


(以上、引用)
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 戦闘が終わったペリリュー島は、米軍の激しい爆撃で変形していた。この珊瑚の島に戻った島民たちは、累々と散らばる日本兵士の遺体に涙を流し、兵士たちの墓地を作った。この墓地は島民の手によって今も整然と維持され、その英霊の遺徳が讃えられている。
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兵士の遺徳を讃える歌

 パラオに1981年に憲法が制定・発布された。この時に「日章旗」を模した国旗とともに、ペリリュー兵士の歌も作られた。ペリリュー兵士とは日本兵を意味している。題して「ペ島の桜を讃える歌」。国のために尊い命をささげ、死しても島民を守り抜いた日本兵士を桜に譬(たと)え、その遺徳への感謝をつづった歌である。

 作詞者はオキヤマ・トヨミ氏、ショージ・シゲオ氏。日本人ではなく、現地の人々である。日本を慕って止まない心。それが国民の8割以上が、姓名のいずれかに日本名を名乗る習慣となった。両氏の名前は、その事実を物語っている。
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  一
  激しく弾雨(たま)が降り注ぎ
  オレンジ浜を血で染めた
  強兵(つわもの)たちはみな散って 
  ペ島(じま)は総て墓地(はか)となる


  ニ
  小さな異国のこの島を
  死んでも守ると誓いつつ
  山なす敵を迎え撃ち 
  弾(たま)射(う)ち尽くし食糧(しょく)もない

  三
  将兵(ヘいし)は桜を叫びつつ
  これが最期の伝えごと
  父母よ祖国よ妻や子よ
  別れの桜に意味深し


  四
  日本の桜は春いちど
  見事に咲いて明日(あす)は散る
  ペ島(じま)の桜は散り散りに
  玉砕(ち)れども勲功(いさお)は永久(とこしえ)に


  五
  今守備勇士(もののふ)の姿なく
  残りし洞窟(じんち)の夢の跡
  古いペ島(じま)の習慣で
  我等勇士の霊魂(たま)守る 


  六
  平和と自由の尊さを
  身を鴻(こな)にしてこの島に
  教えて散りし桜花
  今では平和が甦る


  七
  どうぞ再びペリリューヘ
  時なし桜花(さくら)の花びらは
  椰子の木陰で待ち佗(わび)し
  あつい涙がこみあげる    


  八
  戦友遺族の皆さまに
  永遠(いついつ)までもかわりなく
  必ず我等は待ち望む
  桜とともに皆さまを


(以上、詩文引用)
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 パラオには桜が無かった。だが、現地の人々は、当時未だ見ぬ桜の美しさを日本人の美徳と尊敬し、憧れの念を桜に譬えて慕ったのである。

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 つぼみが膨らむ開花前の健気。咲き始める華麗さ。満開の美しさ。そして、いさぎよく散り行く誉れ。

 今も珊瑚の島に眠る英霊のご冥福を心よりお祈し、小稿を捧げる。
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■ 主な関連記事:

武士道に学ぶ 
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【筆者記】

 パラオ国旗の由来について、上記に引用(写真)する賛文は、パラオの人々の言葉によって、このように括られている。云く、『一万におよぶ英霊たちは私たちに、勇気と国を思う心があれば、アメリカよりも強くなれることを教えて死んだのである』と。いかなる大国にも屈しない心。勇気と国思う心の
強さ。そして、いさぎよき美徳。ここに、古来より連綿と伝わる武士道の心の一端を拝する思いである。

 幾多の先人の恩恵によって、今の日本の地が在り、日本に生まれ育つことができた。この感謝の念は尽きない。
そして、我々が今守るべきもの、後代に伝えるべきものは何か。その明確なる答えを先人は教えている。以って、ここに国思う活動の再開を誓う。短稿にて。
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 読者のみなさまにはお忙しい中、ご訪問をいただき感謝しています。ここに、新たに記事をアップさせていただけたことを有難く思います。 拙い記事に対し、有志のみなさまより、内容を的確にフォローいただくコメント、身を案じてくださるコメントに感謝します。みなさまとともに最良の国思う活動の 1年にしてまいりたく思います。

 一日一日を大切に、みなさまと共に考え、真実を共有できればと願っています。事実を指摘する批判は「悪口」ではなく、真実を掘り出し、その共有のために不可欠です。また、真実の共有はすべての第一歩です。正論は真実から生まれ、良識の声は必ず力になる。辛抱強く支えてくださるみなさまに心より感謝します。再開に向け、また将来のために、どうか末永き応援を宜しくお願いします。 
 


2008/05/04(日) 19:26:36 [武士道に学ぶ]

敵兵を救助せよ!

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英国兵422名を救助した駆逐艦「雷」工藤艦長
 読者から表題の書籍情報をいただいていた、感謝する。短稿に紹介する。博士の独り言/写真は「来日したフォール卿」動画よりより参照のため引用

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資料として編集

 事情により、再掲で恐縮だが、新たなカテゴリーを設け、本記事について、日本の武士道を見直す。その資料の1つとしてアップさせていただく。良識が、幾多の先人の功を見直され、日本の心を再考される。稚稿ながら、1つのご参考として、どこかでお役に立つ機会があれば幸いである。
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死ぬ前にお礼を言いたかった

 英国から、はるばる感謝を述べるために来日したフォール卿(当時・フォール中尉)は、その日の出来事を振り返り、次のように語った。云く、「救助の旗が揚がった時は、夢かと思いました。彼ら(日本兵)は敵である私たちを全力で助けてくれたのです」と。また、「1人、2人を救うことはあっても、全員を捜そうとはしないでしょう。たとえ戦場でもフェアに戦う。困っている人がいれば、それが敵であっても、全力で救う。それが日本の誇り高き武士道であると認識したのです」と。

 このフォール卿の著書(1996年)と来日がなければ、この出来事は知られることがなかったのかも知れない。
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敵兵の命を救った艦長命令

 開戦翌年の1942年 (昭和17年2月27日)。ジャワ島北方のスラバヤ沖で、日本艦隊と英米蘭の連合部隊が交戦。連合部隊側は艦船15隻中11隻を撃沈で失い、残る4隻は逃走。撃沈した「エクゼター」(英海軍の巡洋艦)の乗組員多数が救命ボート等による漂流を続けていたが、生存の限界に達した3月2日に、日本海軍の駆逐艦「雷」が海面に浮遊する多数の英国兵を発見。敵潜水艦から魚雷攻撃を受ける危険性がある。その戦場でのことであった。その前には、日本の病院船の救命ボートが攻撃を受け、158名が命を落とす事態も起きていた。まさに、交戦最中の危険な海域での出来事であった。

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「駆逐艦『雷(いかづち)」 (Wikipedia)より参照のため引用
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 だが、「敵兵を救助せよ」。「雷」艦長の工藤俊作少佐のこの命令により、「雷」は「救難活動中」を示す国際信号機を掲げ、英国兵の救助に当たったのである。だが、長時間の漂流で体力を消耗している英国兵を海面から拾い上げる救助作業は難航。そこで、工藤艦長は「一番砲だけ残し、総員敵溺者救助用意」との命令を発し、船内総力を挙げての救助に当たるよう指示したのである。

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漂流していた英国兵 (動画より)
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 ほぼ総員に近い兵員と、はしご、ロープ、竹竿(たけざお)等々。さらには、魚雷搭載用のクレーンまで、使用可能なすべての装備を投入した救助であった。「漂流者を全員救助せよ」。「漂流者は1人も見逃すな」。工藤艦長のさらなる命令により、「雷」は進行しては止り、すべての英国兵を救助したのであった。その数は実に「422名」。まさに「雷」の乗組員に倍する人数であった。さらに、「雷」の兵員はそれを厭(いと)わず、重油で汚れた英国兵士の身体をアルコールと木綿で丁重拭き取り、貴重な水と食料を提供したのであった。

 その翌日、ボルネオ停泊の病院船へ捕虜として引き渡すことになるが、救助した英国兵の中から将校たちを甲板に招き、工藤艦長は次の言葉を発している。「You had fought breavely.(諸官は勇敢に戦われた)」。「Now, you are the guest of the Imperial Japanese Navy(諸官は日本帝国海軍の(名誉ある)ゲストである」。艦長のこの言葉に、英国将校たちは敬礼を以って感謝の意を表したのであった。
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敵兵を救助せよ!
英国兵422名を救助した駆逐艦「雷」工藤艦長


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単行本: 334ページ
出版社: 草思社 (2006/06)
ISBN-10: 4794214995
ISBN-13: 978-4794214997
発売日: 2006/06
価格: ¥ 1,785 (税込)


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書籍の概要

 一九四二年二月二八日のスラバヤ沖海戦のあと、日本海軍は、自艦を撃沈され海上を漂流する多数の連合国兵士を救助した。文字どおり武士道が発揮された瞬間であり、世界海戦史上でも稀な感動的な出来事なのだが、にもかかわらず、これまで戦史にのることもなく、ほとんど語られることがなかった。それは、工藤艦長が、戦後自衛隊にすすむこともなく、同期の人たちの勧めで就職することもなく、周囲に自らを語ることもなかったという事情もあるが、やはり東京裁判史観の影響があったことは否めまい。

 ところが、平成一五年、スラバヤ沖海戦で「雷」に救助された元英国海軍少尉フォル卿が来日、護衛艦の観閲式にも参列する。このとき、元海上自衛隊士官である著者はフォール卿から依頼を受け、すでに亡くなってはいたが、工藤艦長の消息を尋ねることになる。著者は数か月かけて、工藤艦長の墓地の所在地などを探りあてフォール卿に報告する。この間著者は当時「雷」の乗組員で存命の三名の人たちとも接触、工藤艦長の人となりと救助時の詳細を聞くことができたのである。これが著者が本書を執筆する動機となった。その三名とは、航海長の谷川清澄元少佐、艦長伝令の佐々木確治一等水兵、砲術手の勝又一一等水兵である。この人たちの記憶は鮮明で、これによって救助当日の状況は正確に再現されることになった。また、フォール卿へのインタビューと、工藤艦長への献辞が掲げられている自伝『マイ・ラッキー・ライフ』が証言を補強している。

(書籍紹介より引用) (小ブログで一部補正)
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美徳ゆえに「語らず」

 英国に戻ったフォール氏は、後にフォール卿となり、有能な外交官として活躍。晩節に差しかかった1996年に、自らの人生を一冊の著書にまとめた「マイ・ラッキー・ライフ」。その1ページ目には、謝辞を1人1人の関係者に述べ、そして、この本を、「私を救ってくれた日本帝国海軍の工藤俊作少佐に捧げる」と記している。

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フォール卿の著書 (動画より)
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 来日した理由についてフォール卿は、「自分が死ぬ前に、誇り高き日本人である工藤艦長に、是非、お礼を言いたくて日本を訪れたのです」と。また、「この出来事は、日本人に対して私が持つ印象にずっと影響を与えました。深い尊敬と感謝の念を抱いています」と。だが、工藤俊作氏の消息はつかめなかったという。後に、同氏は1979年1月4日に生涯を閉じていたことが判った。

 工藤氏はこの日の出来事を家族にも語らなかった。その理由について、別の艦船の艦長になった後に「雷」が敵の攻撃で撃沈して全員が死亡。多くの部下と戦友を失った悲しみから終戦後は戦友と連絡を一切とらず、余生を過ごしたため、との指摘がある。ゆえに、一言も触れることは無かったとするものだ。だが、当時の「雷」の航海長を務めていた谷川清澄氏は、「(工藤氏ならきっと)俺は当たり前のことしかやってないんだ。別に、褒(ほめ)められることでもない、と言ったと思います。そういう人でした」と証言している。

 語らなかった真の理由は、やはり美徳ゆえに語らず、との工藤氏の信念にあったと謂えるのかもしれない。
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■ 参考動画

日本の武士道 1】【日本の武士道 2】【日本の武士道 3 
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追稿: 心によみがえる李登輝氏の日本訪問 

 時局にいたり、昨年(2007年)5月の李登輝氏(台湾前総統)の訪日(帰日と謂うべきか)が思い出されてならない。李氏におかれては、台湾総統退任後初の東京を訪問。滞在期間は同5月30日から6月9日までの11日間となった。良き旅行をなされたと同時に、同氏を敬愛する多くの日本国民にとり、相互の心に残る訪日となったことと思う。


 李氏の訪日前には、同氏を台湾独立勢力とみなす中国共産党の騒音が猛々しかった。云く、『台湾は中国の領土の不可分の一部だ。中国は自国への、いかなる国によるいかなる形の内政干渉にも断固として反対する』(姜瑜報道官・5月29日)。また、『台湾独立勢力に活動の舞台を与えるべきでない』(李維一報道官・5月30日)等々。自らが侵略者であることを棚に上げ、何をかいわんや、と指摘すべき状況があった。


 しかし、李登輝氏は穏やかな日々を日本で送られた。限られた日程の中にありながら、しかし、松尾芭蕉が歩を進めた奥の細道行で折々に心豊かな句を詠み、足跡を刻まれたのであった。

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必読の良書!

 先年に紹介した一冊だが、敬愛の思いから、小稿に再び紹介させていただきたい。李氏は、日本の台湾統治について 「日本統治は台湾にとって大きな転換期。日本が残した教育と人材は、戦後の台湾工業化の基礎になった」(産経新聞 2005年8月5日)と述べている。

 また、戦後の台湾についても、「日本人は蒋元総統の『以徳報怨(徳をもって怨みに報いる)』との言葉と戦後 賠償の放棄に感謝するが、(国民党政権が戦後)台湾で接収した日本時代の資産は工業インフラや不動産など、賠償以上の価値があった」(同紙)と言及。


 「日本人よ、自信を持て!」(要旨)と。筆者が学生(院生)時代に面倒をみた研修生(台湾から来日)たちの、「おじいさん」「おばあさん」の世代から折々にいただいた言葉である。

 台湾のシニア世代には、皇室と日本人を敬愛する人が多数おられる。統治時代とはいっても、日本の統治が、決して、特定国が難癖をつけるような“植民地支配”ではなかった証左であり、同国と日本とが、力を合わせて築いた遺産であることの証明である。すでにご存知のことと思うが、李氏の一冊を紹介する。

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「武士道」解題―ノーブレス・オブリージュとは

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李 登輝 著

単行本: 318ページ
出版社: 小学館 (2003/03)
ISBN-10: 4093873704
ISBN-13: 978-4093873703
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【目 次】

第1部 日本的教育と私
第1章 世界に目を開いてくれた先哲の教え
第2章 新渡戸稲造との出会い
第3章 新渡戸稲造、国際人への旅立ち
第2部『武士道』を読む
第1章 道徳体系としての武士道
第2章 武士道の淵源
第3章 義
第4章 勇・敢為堅忍の精神
第5章 仁・惻隠の心
第6章 礼
第7章 誠
第8章 名誉
第9章 忠義
第10章 武士の教育および訓練
第11章 克己 など
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書評紹介

(日経BP企画)「武士道」解題 ノーブレス・オブリージュとは

 台湾前総統で旧制の日本教育を受けた著者は「日本の良いところや、精神的価値観の重要性を人一倍よく知っている」と言う。新渡戸稲造が100年余り前に著した『武士道』を解説しながら、日本人が忘れかけている高い精神性を取り戻そうと訴える。

 新渡戸は「義」を重んじ、「忠」を尊び、「誠」をもって率先垂範するといった武士道が、民族固有の歴史や風俗、仏教や儒教、神道などと深く関わっていることを記した。著者は1000年もの長い間、日本に浸透し、世界に誇るべき精神的支柱だった武士道や「大和魂」を、戦後、日本が意識的に踏みつけてきたことを批判する。

 日本再生を期す今こそ、武士道の規範を徹底的に再検討し、実践に移すべきだと熱く説いている。(日経ビジネス 2003年5月5日 日経BP企画の書評より)

(以上、引用)

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【筆者記】


 「武士道」と讃えられる工藤艦長の英断は、日本人の底力から生まれたものと謂えよう。漂流する英国兵を発見すれば、戦場ゆえに、その場で掃討する機会でもあった。また、掃討は、戦争ゆえにどの参戦国にも見られた光景である。強敵には刃(やいば)を抜く。しかし、目前で弱り果てて窮している者を討つ。それはフェアなことではなく、武士道に反する。「漂流者を全員救助せよ」とは、まさに、工藤艦長が自らを制し、武士道の心から発した命令であったのかもしれない。
 
 一方、中国共産党による強大な圧力に屈せず、跳ね返し、台湾に民主主義を確立した李登輝氏の存在は、現今の国思う
政治家がいかにあるべきか。その道標とすべき、生きたお手本と謂えるのではないか。新渡戸稲造氏、後藤新平氏の武士道の魂を、あらためて、我々の世代に伝えてくれた李登輝氏に感謝を捧げ、益々のご健勝を願う1人である。

 この「みどりの日」に、幾多の先人の功に思いを馳せ、先人の業績に敬意と感謝を捧げ、敬礼を捧げる。そして、日本は毅然と在れ。この願いを佳き日に託し、国民の1人として祝詞を申し上げる。短稿にて
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 読者のみなさまにはお忙しい中、ご訪問をいただき感謝しています。ここに、新たに記事をアップさせていただけたことを有難く思います。 拙い記事に対し、有志のみなさまより、内容を的確にフォローいただくコメント、身を案じてくださるコメントに感謝します。みなさまとともに最良の国思う活動の 1年にしてまいりたく思います。
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