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2011/02/13(日) 22:00:58 [学外講義]

「武士は食わねど高楊枝」の謂

20110213005
博士の独り言にアクセスし辛い状況
 【読者便り】 現在も博士の独り言にアクセスし辛い状況が継続していますが、何故か昨日は、パソコンからのアクセス数が2万5千余りと、アクセス数が3万件を下回るだけでなく、一昨日に比べ凡そ6千件も少なくなっています。 これは一体何故なのでしょうか? 休日にアクセス者が減少するのなら分かりますが、このアクセス数の激減は理解に苦しみます…。 いつもよりエントリー記事の数が少なかったからでしょうか…? (2010/03/12 00:39) 「博士の独り言」応援者さんより当時頂戴したメッセージ)/写真は「路傍の梅」(2011年2月13日)(筆者)
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諸事のため
 
 諸事への対応に懸命になっているうちに、夜遅くの時間帯になってしまいました。あらためて後ほど小稿を報告させていただくこととさせていただきます。しかし、「日本盲導犬協会(財団法人)」へのクリック募金(1日1クリック=1円の募金)へのご協力をあらためてお願いいたしたく、併せて、ここに先年(平成22年3月12日)の小稿を再掲させていただきたく思います。
 
 アクセス数に関して読者から頂戴したご質問に対してお答えし、さらに、日本人の誇れる美徳に少々触れさせていただいたものです。ご参照いただけば幸いです。以下、
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アクセスカウンターの故障
 
 みなさまより激励のメッセージをいただき有難うございます。お返事を申し上げたく思うこともしばしばですが、返信先が判らないため、「個」への特定を回避させていただいた上で、公開させていただき差し支えのない、と判断するメッセージについては、折々、短稿ながら、小稿に紹介し、この場でお返事を申し上げることにしています。
 
 なお、アクセスについてご心配いただき、感謝します。アクセスカウンター(2010年3月11日)についてですが、サーバーに障害が発生した模様です。総計で約4時間分のアクセス(PC)が計上されなかった模様です。攻撃を受けた可能性も考えられますが、この現象については、故障が原因かと思われます。こうしたことが年に数度有るようです。なお、小ブログのアクセスカウンターについては、一応、「ユニーク数」に設定しております。
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「武士は食わねど高楊枝」の謂れ
 
 ところで、「武士は食わねど高楊枝」、との謂(いわ)れをみなさまにはご存知のことかと思います。武士たる者は、たとえ、生活に窮(きゅう)して食事を満足に出来ない状況にあったとしても、満腹を装って楊枝を使う、と。この喩(たと)えは、一般に、よく「やせ我慢」を表す意味に用いられているようです。しかし、より深い意味が示すものは、たとえ、いかに生活に窮しても不義、不行に手を染めず、との日本人の美徳を表すもので、そもそもの、大和の国、敷島の品位の高さを、武士の気位に約した喩(たと)えと謂えます。どこぞの「恥」を知らない国の民やそれらに準ずる一部の政治家のメンタリティとは、品位の点で格段の差が有ります。
 
 また、物事、事象を構造的にとらえ、諸事を関連付けて認識することを特長とする日本人にとっては、たとえば、空腹時に目の前に饅頭を出されても、手をつけずに、それが毒饅頭であった場合も含めて、その先に有り得るリスクを先ず考える。それゆえの「高楊枝」のスタンス、とも謂えます。ごく身近に、たとえば、国から「子ども手当」が出ると云われても、さぞ、有り難いことかも知れないが、日本人の美徳に照らしてみて、その「代金」は、果たして、先々で誰が支払うことになるのか、と。そこで構造的にその先読みをする。また、それが可能なのが、理性と品位をもって処する日本人の美徳と謂えるのであります。

 大げさかもしれませんが、たとえ、乞食となっても恥に身を染めず、との謂でもあります。物事の筋道を違えたおかしな政党やカルトの世話にはならず、わが身には日本人の美徳に照らす誇りあり、と堂々と生きる。おそらく、この信条は、多くの国思うみなさまが、ごく当たり前に共有しておられる信条と拝察しております。そこにまた、英邁に事象を見抜く日本人の特質を発揮できるものと思います。以上、少々余談になりましたが、地道ながら、今日もまた、日々新たに進んでまいりたく思います。次世代のためにも、廃国政党やカルト、恥知らずの毀日国の侵蝕など、あらゆる国害に騙(だま)されず、また、世話にならず、先祖代々の日本人の美徳を誇りとして、毅然とした日本を築いてまいりましょう。 (以上、平成22年3月12日の小稿より転載)
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20110213004  
路傍の紅梅(2月13日)
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2008/06/25(水) 04:12:13 [学外講義]


 

生命の不思議

20080703002 
【野菊】正体不明の生き物
 雨の合間に庭の掃除をしていたら、変なモノがいた。最初は砂利の上に輪ゴムでも落ちているのかと思った。モノはぬめぬめ光って動いている。ナメクジだろうと目を近づけてみると、もっと細長い。伸ばせば20センチくらいあるのではないか。幅は5ミリ程度だ。落ち葉の軸で引っかけて持ち上げようとしても、こんがらがった体はほどけずに地面に張り付いている。頭らしき方から必死に砂利の中にもぐりこもうとしている。これはヒルのたぐいだろうか。子供ならおもしろがって小突き回すのだろうが、正体不明の生き物をあんまり構うと罰が当たりそうで怖い。触ったらかぶれそうだ。蚊が寄ってくるのも気になって、そのまま家に入った。イザ2008年6月25日付記事より参照のため抜粋引用/写真は「プラナリア
Wikipediaより参照のため引用
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ああ、プラナリアのことか

 表題の記事を読んで、ああ、プラナリアのことだろう、と。ふと懐かしく、子供の頃を思い出した次第。プラナリアの特徴は愛嬌が感じられる目つきにある。

 図体はゼラチン質で出来ているかに見えて、しかし、環境条件が合えば無類の繁殖力を発揮する。このけったいな生き物については、園児の頃に幼稚園の庭隅で初めて目の当たりにした。小学1年の時に、図書館の図鑑で強靭な繁殖力を持つ「プラナリア」であることを確認した。その生態の特異性から、あるいは、ひょっとして、何らかの理由によって、その由来は地球外からのものではないか、と考えた頃もあった。

 もう1つ特異な生物として、「クマムシ」の存在がある。クマムシは、水がなくても、自らを仮死状態に置いて100年以上生きることが可能。上は摂氏150度、下はマイナス200度の温度環境下でも生き延びるといわれている。大気が真空に近い状態でも生き延び、また、強い放射線を当てても死なない。たとえば、火星の環境下でも生き残れそうな、そのような印象を少年時の心に抱いたものだ。

 地球上の生物がいかに発生し、多様化を遂げたのか。その全体像の解明のためには、まだまだ「発見」が足りない。生物学は専門外だが、筆者にはそう映るのである。まだ、この地球のことでさえ、ひょっとすると、人類がこれまでに掌握し得ている知識は、未だ5パーセントも満たないのかもしれない。

 地球は、いわば、ドロドロに溶けたマグマを袋に入れた状態に等しく、そのマグマは長大な時間をかけて対流している。その袋の部分に当たる地殻は、古い地層がマグマの中に沈んで溶け込み、新たな地層は火山の噴火などによって、そのマグマの中から生成される。ゆえに、同位元素の半減期を目安にした年代測定法もまた、袋の表層のまた表層に残る、ほんのわずかな「手がかり」を測っているに過ぎないのかもしれない。それが事実とすれば、「地球」の歴史のすべてを測ろうとしても、所詮は無理な話ということになる。
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なぜ外惑星にはメタンが存在するのか

 上述の話で思い起こすテーマは、外惑星にメタンが存在する理由だ。一般に、メタンは生物由来の物質と解釈する方がごく自然だが、しかし、木星や土星、天王星、海王星に多量のメタンが存在している由来について、その解明を試みる研究がほとんどなされていない。この分野で学位を取ろうと考えておられる学生諸氏がおられれば、このメタンが存在している、その由来の研究は1つのチャンスにできるのかもしれない。

 これまでは、生物の存在は絶望的と考えられて来た外惑星の厳しい環境下で、仮初にもクマムシをもっと強靭にした微小生物や、その環境に適合して繁殖するプラナリアのようなフレキシビリティに富んだ生物の存在を仮定すれば、あるいは、メタンが現実に存在する事由を説明できるかもしれない。こうして、外の世界を研究することは、惑星研究という共通した視座の上から、マグマの袋のほんの表層しか測り得ていない「地球」を知る。その研究を補足することにもなるだろう。

 いわゆる冥王星以遠の軌道に、さらなる外惑星が発見されつつあるようだが、こうしたタイプの外惑星があと5、6個は存在するはずだ。太陽系外縁に想定されているオールトの雲まで、延々と外惑星が点在している、と。これは筆者の少年の頃からのイメージに過ぎないが、しかし、ぼんやりとして大きなガス球でしかなかった原始の太陽の、最初の外縁がオールトの雲の位置にあった、と逆考すれば、それらの外惑星の存在も十分に説明できるのである。また、系外惑星の研究においても、ごくありふれた恒星の1つでしかない太陽系の生成について、この点をよく検証してみる価値はあるだろう。

 学校で教わることは「基礎知識」「ヒント」に過ぎない。教える側にとっても同様である。憶えるだけで終わっては意味がない。大切なことは、それらをもとに、自ら事象を認識し、見抜き、あるいは論考し、事実や法則性を見出して行くことだ。事象という側面から述べれば、これは応用物理学にも、また、政治にも共通しているように思う。(第2講へつづく)
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 読者のみなさまにはお忙しい中、ご訪問をいただき感謝しています。ここに、新たに記事をアップさせていただけたことを有難く思います。 拙い記事に対し、有志のみなさまより、内容を的確にフォローいただくコメント、身を案じてくださるコメントに感謝します。一 日一日を大切に、みなさまと共に考え、真実を共有できればと願っています。事実を指摘する批判は「悪口」ではなく、真実を掘り出し、その共有のために不可 欠です。また、真実の共有はすべての第一歩です。正論は真実から生まれ、良識の声は必ず力になる。辛抱強く支えてくださるみなさまに心より感謝します。さ さやかながら国思う活動の発展のために、どうか末永き応援を宜しくお願いします。  

日本は毅然とあれ! 

 



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