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2007/11/28(水) 21:00:00 [歴史関連資料]


「水一杯」を英霊に捧ぐ

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火山も『いおうとう』島名と統一へ 気象庁検討
 国土地理院が六月に「いおうじま」から「いおうとう」へ呼称変更した小笠原諸島・硫黄島(東京都小笠原村)。一方で気象庁は火山名で「いおうじま」と呼び続け、ちぐはぐな状態になっているが、同庁も呼称変更の検討を始めた。近い将来、島名も火山名も「いおうとう」に統一されることになりそうだ。
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 戦前の旧島民は「いおうとう」と呼んでいた。太平洋戦争での激戦を経て戦後統治した米国は「Iwo Jima(いおうじま)」と称し、日本復帰後も「いおうじま」が一般的となった。だが、旧島民の「いおうとう」への強い思いから、小笠原村が地名修正を要望。国土地理院は海上保安庁と協議の末に六月十八日、呼称を「いおうとう」に変更した。東京新聞 8月27日付記事より参照のため引用。/写真は硫黄島(読者提供)

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ひと柱でも多くの遺骨の帰国を

 この硫黄島でも、今もなお同島に眠る多数の遺骨。ひと柱でも多く、故郷・日本に帰還できることを願う。
読者からご提案いただいた「コップの水一杯」を運動に紹介し、気持ちの上だけでもみなさまにお願いし、小稿を再掲する。敬礼。
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本土を1日でも長く守るために-すべての可能な努力を

 1944年夏、マリアナ諸島を攻略した米軍は、同年11月からB-29による日本本土に対する長距離爆撃を開始。航路の中間地点にある硫黄島(いおうじま)は、米軍にとって、本土への空襲を本格化するために、どうしても抑えたい重要な島であった。


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硫黄島の位置Wikipedia)
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 作戦開始を間近に控えた1945年2月16日。「硫黄島は攻略予定は5日間」。記者会見でスミス中将は説明している。3昼夜におよぶ激しい爆撃で、米軍が同島に投じた爆弾の量は700トン。砲弾は5000トンにもおよんだ。物量に圧倒した先制攻撃の後に、米軍は硫黄島への上陸を開始。

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3昼夜にわたる攻撃が加えられた(記録映画より)
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 しかし、そこから日本軍の反撃が始まった。同島の地下には、栗林忠道中将の発案により地下壕(全長18キロ)が網の目のように構築され、その中に、激しい砲撃を耐えた日本軍が待ち構えていたのである。米軍の目算では「5日間」で終わるはずだった同島の攻防は、実に36日間以上におよび、米軍は日本軍を上回る損害を被った。


 日本本土に対する米軍の無差別爆撃は、軍需施設を狙ったものではなく、明らかに非武装の民間人を標的としていた。戦前の渡米経験から米国をよく識り、空襲激化の状況を知悉(ちしつ)していた栗林中将は、この米軍の本土侵攻を1日でも遅らせたい。家族や子供たちの平安を1日でも長く、との思いを強くしていた。

 この決戦の前年に、父島へ赴任した栗林中将は戦況を詳細に調査し、米軍は硫黄島へ進攻すると判断。当時は無防備に等しかった硫黄島へ司令部と第109師団を移動。すでに、圧倒的な戦力で制空権と制海権をほぼ手中に収めていた米軍に対し、硫黄島を防戦の拠点と決めたのであった。

 どうすれば米軍の侵攻を遅らせることができるか。それは米軍の思惑を覆(くつがえ)す「島の要塞化」であった。栗林中将の才智と、同中将のもとに士気上がる守備隊が可能な限りの努力を尽くし、短期間の内にその構想を実現し、持てる戦力のすべてを尽くし、徹底的な持久抗戦を貫いたのであった。

 この大規模な地下陣地の構築と戦力の合理的な配備によって、補給が途絶えた中で、物資、兵力で3倍以上に達する米軍に対して善戦。異例の大打撃を与え、本土進攻を遅らせたのであった。

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本部玉砕後も続いた戦闘

 地下壕の中は、折からの火山熱により、摂氏40度を超える暑さであったという。すでに補給がなく、ゆえに食料も水も底を尽き、この限界を超えた状況の中で、米軍の侵攻を1日でもより長く阻止するために、日本兵士は闘ったのである。

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栗林忠道中将(記録映画より)
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 そして、ついに同年3月17日、栗林中将は東京の大本営へ訣別電報を送信。


 『戦局遂に最期の関頭に直面せり、十七日夜半を期し小官自ら陣頭に立ち皇国の必勝と安泰を念願しつつ全員壮烈なる攻撃を敢行する。敵来攻以来想像に余る物量的優勢をもって陸海空より将兵の勇戦は真に鬼神をもなかしむるものがあり』(以下略)と打電。

 補給路を断たれた中で、また、砲弾も尽きる中での戦いであった。同26日、日本軍の最後の反攻が行われ、栗林大将、市丸少将以下、数百名の残存部隊がアメリカ軍陣地へ攻撃をかけ、日本軍の組織的な戦闘はここで終わった。しかし、島北部の残存兵力による散発的な戦闘はなおも続き、6月末まで戦いは続いた。まさに62年前のつい先日まで、硫黄島には、母国への攻撃阻止を最後まで願い、日本兵士の戦いが続いていたのである。

 完全終結までに、日本軍の戦死者は20,129名(島民から徴用された軍属82名)。生存者1,033名は米軍の人道的救護のもとに保護された。一方、米軍の戦死者は6,821名。負傷者は21,865名を出した壮絶な戦いであった。
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「一杯の水」運動の提案

 読者から次のコメントをいただいので紹介する。(以下、引用)

 関西テレビのナマでもズバリ!という番組の中で青山繁晴氏が「硫黄島は生きるヒントを語る」というテーマでお話をされていました。氏が特別許可を得て硫黄島に降り立ち取材をした中で、見たもの、感じたこと、その他の取材内容に関して、涙ながらにお話されています。(中略)

 遺骨収集によって帰国出来た兵士は八千人。残り、一万人の英霊たちはいまだ帰国出来ていません。

 硫黄島の兵士たちは、アメリカ軍による本土空襲が、日本の軍事施設や工場を爆撃するためのものではなく、実は日本の女性と子供たちを殺すことを目的としていたことを知り、栗林中将の下、地下壕を堀って立てこもり、少しでも長く戦おうと硫黄島を死守していたそうです。そうすればその分、本土の女性や子供たちが命をつなげることが出来るからでした。

 青山氏はまずは私たち国民一人一人が、私たちを守るためだけに死闘の限りを尽くして亡くなっていった英霊の方々のために、一杯の冷えたお水を供え、硫黄島に思いを抱いて欲しい。そして、それがゆくゆくは遺骨収集の国民運動になって欲しいと願っています。

(以上、引用)
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 ご投稿に感謝する。すべてが尽きた中で、なおも母国・日本を思い、家族と女性、子供たちを守らんと死力を尽くした兵士方々は、地獄のような暑さと飢え、渇(かわ)きととも闘っていたのである。時と場所を超えて「一杯の水」を捧げる。この心を大切にしたい。

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硫黄島の地下壕跡(記録映画より)
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 「冷えた一杯の水」。勇士はどれほど口にしたかったことか。その思いに敬礼を捧げ、小稿に感謝を捧げ、そして、一杯の水を捧げる。

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【筆者記】

 かけがえのない命と引き換えに、国を守り育てた先人英霊あればこそ、今の日本がある。日本人として生まれ、日本の「飯」で育ち、日本の「言葉」で学び、この国土に生きて来た。無数の先人が命と引き換えに守り育てて来たこの「日本」があればこそ、今の自分自身の存在がある。先人、父母に敬意と感謝を捧げる。そのごく自然な感謝が、日本人の尊厳と誇りの底流にあるべきである。
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 読者のみなさまにはお忙しい中、ご訪問をいただき感謝しています。ここに、新たに記事をアップさせていただけたことを有難く思います。 拙い記事に対し、有志のみなさまより、内容を的確にフォローいただくコメント、身を案じてくださるコメントに感謝します。

 一日一日を大切に、みなさまと共に考え、真実を共有できればと願っています。事実を指摘する批判は「悪口」ではなく、真実を掘り出し、その共有のために不可欠です。また、真実の共有はすべての第一歩です。正論は真実から生まれ、良識の声は必ず力になる。共に闘ってくださるみなさまに心より感謝します。



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2007/11/25(日) 13:49:53 [歴史関連資料]


パラオの桜と英霊

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紺碧の空と海に囲まれたパラオ
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南海の親日国家

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日本の国旗を模したパラオの国旗
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 恐縮だが、小稿について、時折再掲させていただく。良識によって日本が守られ、南海の島に眠る英霊の安らかなることを願う。

 パラオ共和国(Republic of Palau)(現地では「ベラウ」と呼称)は、南北およそ640Kmに渡って散在する200以上の島々を統括した国家である。このうち9島のみに人が居住し、残りの島々は無人島である。人口は 20,044人(2006年 太平洋共同体事務局)。人口の7割がパラオ人で、残り大半はフィリピン人で占められ、支那、米国、日本などからの移住民も含まれている。
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パラオが親日国家である事由

 国内の言語は、基本的にパラオ語と英語だが、現地の年配の人々には、戦時中に日本語による教育を受けていたために流暢な日本語を話す人が多い。日本語がそのままパラオ語として使われている言葉が非常に多い。たとえば「はい」「扇風機」「大丈夫」「浴衣」「どうぞ」「大統領」等々。

 パラオは、第一次世界大戦の戦後処理、そのためのパリ講和会議によって、日本(大日本帝国)の委任統治領になった。

 当時の様子は、「コロールには南洋庁の支庁を置かれ、パラオは周辺諸島における統治の中核的な島となり、多くの日本人が移住(最盛期には2万5千人ほどの日本人が居住)した。このため、学校や病院・道路など各種インフラの整備も重点的に行われ、1920年代頃になるとコロールは近代的な町並みへとその姿を変貌させていった。また日本統治の開始にともないドイツ語から日本語による学校教育が先住民に対しても行われるようになった」(
Wikpedia)とある。


 日本統治の時代は、現地民に愛された時代であった。礼儀正しさと節度、道徳心。他を思いやる心。それらの悉(ことごと)くが、今日の民族性に引き継がれ、反映されている。現地を訪れた研究者によれば、パラオの国定教科書では8パーセント近くを日本統治時代に充てており、「日の丸の旗のもとに」との題名が付けられた章もあるそうだ。

 日本の統治時代は、パラオの歴史の中で最も輝かしく、現地の人々の心に残る時代であった。そして、パラオで今も語り継がれる「ペリリュー島の戦闘」があった。

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現地民間人に死者を出さなかった戦い

 パラオの南端部にペリリュー島がある。面積は、20平方キロメートルほどの珊瑚礁の島だが、フィリピン防衛のために重要な拠点であった。その島に、昭和19年(1944年)9月、米軍が攻撃を開始。米軍の戦力は圧倒的に勝っていた。日本軍は、守備隊が約1万2000名。だが、米軍が制海権を制空権を握り、15倍近くの兵力を投入。航空機、戦車、重火器のいずれの面でも、100倍、1000倍の軍事力をもって同島の攻撃に臨んだのである。

 米軍は「攻撃は2、3日で終了」と予測。退路を断たれた日本軍は、武器と弾薬、食料の補給路は無かった。いよいよ、9月12日に始まった米軍の攻撃。だが、日本軍はこれを持久戦に持ち込み、73日間にわたってペリリュー島を勇敢に守ったのである。10月30日には、攻撃に臨んだ「米軍海兵第1師団を全滅判定(損失60%)に追い込み、陸軍第81師団へ交代する場面も現れた」(Wikipedia)。米軍は日本軍に倍する犠牲者を出したのであった。

 しかし、戦闘が終局に達した11月24日。生き残った将兵はわずか60人足らずになっていたという。「ついに司令部陣地の兵力弾薬もほとんど底をついたため、司令部は玉砕を決定、地区隊長中川州男大佐と師団派遣参謀村井権治郎少将、飯田義栄中佐の割腹自決の後、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が送られ、翌朝にかけて根本甲子郎大尉を中心とした55名の残存兵による「万歳突撃」が行われた」(Wikipedia)。

 壮絶で長い戦闘が繰り広げられたにもかかわらず、このペリリュー島の民間人には1人も犠牲者が出なかった。戦局を鑑(かんが)みた司令部の配慮により、すべての島民のパラオ本島他への移住をほぼ完了させていたからである。残った島民も疎開させるため、戦火をかいくぐるように本島へと送り出している。

 「毎日新聞」(記載年月日不肖)掲載と伝えられるが、この時の様子を記した「コラム」がネットで紹介されている。「毎日新聞」らしからぬ感動的な「コラム」だが、このような状況が実際に、随所にあったと感じ、小稿に紹介する。

遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。
「あそこでみんな死んでいったんだ・・・」 
沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。
太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。
老人は村の若者達と共にその作業に参加した。
日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。


やがて戦況は日本に不利となり、
いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。
仲間達と話し合った彼は代表数人と共に
日本の守備隊長のもとを訪れた。自分達も一緒に戦わせて欲しい、と。


それを聞くなり隊長は激高し叫んだという
「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」  
日本人は仲間だと思っていたのに…みせかけだったのか
裏切られた想いで、みな悔し涙を流した…


船に乗って島を去る日 日本兵は誰一人見送りに来ない。
村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。


しかし船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきた。
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。
先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。その瞬間、彼は悟ったという。
あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと・・・。


(以上、引用)
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 戦闘が終わったペリリュー島は、米軍の激しい爆撃で変形していた。この珊瑚の島に戻った島民たちは、累々と散らばる日本兵の遺体に涙を流し、日本兵の墓地を作った。この墓地は島民の手によって今も整然と維持され、その英霊の遺徳が讃えられている。

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兵士の遺徳を讃える歌

 パラオに1981年に憲法が制定・発布された。この時に「日章旗」を模した国旗とともに、ペリリュー兵士の歌も作られた。ペリリュー兵士とは日本兵を意味している。題して「ペ島の桜を讃える歌」。国のために尊い命をささげ、死しても島民を守り抜いた日本兵士を桜に譬(たと)え、その遺徳への感謝をつづった歌である。

 作詞者はオキヤマ・トヨミ氏、ショージ・シゲオ氏。日本人ではなく、現地の人々である。日本を慕って止まない心。それが国民の8割以上が、姓名のいずれかに日本名を名乗る習慣となった。両氏の名前は、その事実を物語っている。

  一
  激しく弾雨(たま)が降り注ぎ
  オレンジ浜を血で染めた
  強兵(つわもの)たちはみな散って 
  ペ島(じま)は総て墓地(はか)となる


  ニ
  小さな異国のこの島を
  死んでも守ると誓いつつ
  山なす敵を迎え撃ち 
  弾(たま)射(う)ち尽くし食糧(しょく)もない


  三
  将兵(ヘいし)は桜を叫びつつ
  これが最期の伝えごと
  父母よ祖国よ妻や子よ
  別れの桜に意味深し


  四
  日本の桜は春いちど
  見事に咲いて明日(あす)は散る
  ペ島(じま)の桜は散り散りに
  玉砕(ち)れども勲功(いさお)は永久(とこしえ)に


  五
  今守備勇士(もののふ)の姿なく
  残りし洞窟(じんち)の夢の跡
  古いペ島(じま)の習慣で
  我等勇士の霊魂(たま)守る 

  六
  平和と自由の尊さを
  身を鴻(こな)にしてこの島に
  教えて散りし桜花
  今では平和が甦る

  七
  どうぞ再びペリリューヘ
  時なし桜花(さくら)の花びらは
  椰子の木陰で待ち佗(わび)し
  あつい涙がこみあげる    


  八
  戦友遺族の皆さまに
  永遠(いついつ)までもかわりなく
  必ず我等は待ち望む
  桜とともに皆さまを


(以上、詩文引用)
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 パラオには桜が無い。だが、現地の人々は、当時未だ見ぬ桜の美しさを日本人の美徳と尊敬し、憧れの念を桜に譬えて慕っている。

 つぼみが膨らむ開花前の健気。咲き始める華麗さ。満開の美しさ。そして、いさぎよく散り行く誉れ。

 今も珊瑚の島に眠る英霊のご冥福を心よりお祈し、小稿を捧げる。
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【筆者記】

 パラオの国旗は、太平洋に浮かぶ月を象(かたちど)っている。なぜ「月」なのか。現地を訪れた研究者(筆者の知人)によれば、太陽(日本)があってこそ「月の輝きがある」との意味が込められているとのことだ。中心から微妙にズレている。これは「同じでは日本に失礼だから」とわざと中心をはずした、との有名なエピソードがある。

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パラオの国旗成立の理由(現地 Clickで拡大)
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 一部の他国が、捏造をもとにいかに非難しようとも、建国以来、幾多の先人、幾多の英霊がもたらした恩恵によって、日本の今日がある。先人、英霊が自らの命と引き換えに、守り育てた国土に我々は生まれ、生活している。

 そして、我々が今守るべきもの、後代に伝えるべきものは何か。その明確なる答えを、先人、英霊は教えている。

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