2008/05/07(水) 18:29:48 [武士道に学ぶ]
パラオの桜と英霊
紺碧の空と海に囲まれたパラオ
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南海の親日国家
小稿について、「武士道に学ぶ」資料として掲載させていただく。時節に照らし、いかなる「大国」にも屈しない心。国思う心の強さ、日本人の底力を、今一度、ここで見直すべき時と思うゆえである。良識によって日本が守られ、南海の島に眠る英霊の安らかなることを願う。
パラオ共和国(Republic of Palau)(現地では「ベラウ」と呼称)は、南北およそ640Kmに渡って散在する200以上の島々を統括した国家である。このうち9島のみに人が居住し、残りの島々は無人島である。人口は 20,044人(2006年 太平洋共同体事務局)。人口の7割がパラオ人で、残り大半はフィリピン人で占められ、支那、米国、日本などからの移住民も含まれている。
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パラオ地図(パラオ政府観光局)
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パラオが親日国家である事由
国内の言語は、基本的にパラオ語と英語だが、現地の年配の人々には、戦時中に日本語による教育を受けていたために流暢な日本語を話す人が多い。日本語がそのままパラオ語として使われている言葉が非常に多い。たとえば「はい」「扇風機」「大丈夫」「浴衣」「どうぞ」「大統領」等々。
パラオは、第一次世界大戦の戦後処理、そのためのパリ講和会議によって、日本(大日本帝国)の委任統治領になった。
当時の様子は、「コロールには南洋庁の支庁を置かれ、パラオは周辺諸島における統治の中核的な島となり、多くの日本人が移住(最盛期には2万5千人ほどの日本人が居住)した。このため、学校や病院・道路など各種インフラの整備も重点的に行われ、1920年代頃になるとコロールは近代的な町並みへとその姿を変貌させていった。また日本統治の開始にともないドイツ語から日本語による学校教育が先住民に対しても行われるようになった」(Wikpedia)とある。
日本統治の時代は、現地民に愛された時代であった。礼儀正しさと節度、道徳心。他を思いやる心。それらの悉(ことごと)くが、今日の民族性に引き継がれ、反映されている。現地を訪れた研究者によれば、パラオの国定教科書では8パーセント近くを日本統治時代に充てており、「日の丸の旗のもとに」との題名が付けられた章もあるという。
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パラオ国旗の由来
日本の国旗を模したパラオの国旗
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パラオの国旗は、太平洋に浮かぶ月を象(かたちど)っている。なぜ「月」なのか。太陽(日本)があってこそ「月の輝きがある」との意味が込められているとのことだ。中心から微妙にズレている。これは「同じでは日本に失礼だから」とわざと中心をはずした、との有名なエピソードがある。
パラオの国旗成立の理由(現地 Clickで拡大)
日本の統治時代は、パラオの歴史の中で最も輝かしく、現地の人々の心に残る時代であった。そして、その国旗の由来にも綴(つづ)られ、パラオで今も語り継がれるペリリュー島の戦闘があった。
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現地民間人に1人も死者を出さなかった戦い
パラオの南端部にペリリュー島がある。面積は、20平方キロメートルほどの珊瑚礁の島だが、フィリピン防衛のために重要な拠点であった。その島に、昭和19年(1944年)9月、米軍が攻撃を開始。米軍の戦力は圧倒的に勝っていた。日本軍は、守備隊が約1万2000名。だが、米軍が制海権を制空権を握り、15倍近くの兵力を投入。航空機、戦車、重火器のいずれの面でも、100倍、1000倍の軍事力をもって同島の攻撃に臨んだのである。
米軍は「攻撃は2、3日で終了」と予測。退路を断たれた日本軍は、武器と弾薬、食料の補給路は無かった。いよいよ、9月12日に始まった米軍の攻撃。だが、日本軍はこれを持久戦に持ち込み、73日間にわたってペリリュー島を勇敢に守ったのである。10月30日には、攻撃に臨んだ「米軍海兵第1師団を全滅判定(損失60%)に追い込み、陸軍第81師団へ交代する場面も現れた」(Wikipedia)。米軍は日本軍に倍する犠牲者を出したのであった。
しかし、戦闘が終局に達した11月24日。生き残った将兵はわずか60人足らずになっていたという。「ついに司令部陣地の兵力弾薬もほとんど底をついたため、司令部は玉砕を決定、地区隊長中川州男大佐と師団派遣参謀村井権治郎少将、飯田義栄中佐の割腹自決の後、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が送られ、翌朝にかけて根本甲子郎大尉を中心とした55名の残存兵による「万歳突撃」が行われた」(Wikipedia)。
壮絶で長い戦闘が繰り広げられたにもかかわらず、このペリリュー島の民間人には1人も犠牲者が出なかった。戦局を鑑(かんが)みた司令部の配慮により、すべての島民のパラオ本島他への移住をほぼ完了させていたからである。残った島民も疎開させるため、戦火をかいくぐるように本島へと送り出している。
「毎日新聞」(記載年月日不肖)掲載と伝えられるが、この時の様子を記した「コラム」がネットで紹介されている。「毎日新聞」らしからぬ感動的な「コラム」だが、このような状況が実際に、随所にあったと感じ、小稿に紹介する。
遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。
「あそこでみんな死んでいったんだ・・・」
沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。
太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。
老人は村の若者達と共にその作業に参加した。
日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。
やがて戦況は日本に不利となり、
いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。
仲間達と話し合った彼は代表数人と共に
日本の守備隊長のもとを訪れた。自分達も一緒に戦わせて欲しい、と。
それを聞くなり隊長は激高し叫んだという
「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」
日本人は仲間だと思っていたのに…みせかけだったのか
裏切られた想いで、みな悔し涙を流した…
船に乗って島を去る日 日本兵は誰一人見送りに来ない。
村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。
しかし船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきた。
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。
先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。その瞬間、彼は悟ったという。
あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと・・・。
(以上、引用)
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戦闘が終わったペリリュー島は、米軍の激しい爆撃で変形していた。この珊瑚の島に戻った島民たちは、累々と散らばる日本兵士の遺体に涙を流し、兵士たちの墓地を作った。この墓地は島民の手によって今も整然と維持され、その英霊の遺徳が讃えられている。
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兵士の遺徳を讃える歌
パラオに1981年に憲法が制定・発布された。この時に「日章旗」を模した国旗とともに、ペリリュー兵士の歌も作られた。ペリリュー兵士とは日本兵を意味している。題して「ペ島の桜を讃える歌」。国のために尊い命をささげ、死しても島民を守り抜いた日本兵士を桜に譬(たと)え、その遺徳への感謝をつづった歌である。
作詞者はオキヤマ・トヨミ氏、ショージ・シゲオ氏。日本人ではなく、現地の人々である。日本を慕って止まない心。それが国民の8割以上が、姓名のいずれかに日本名を名乗る習慣となった。両氏の名前は、その事実を物語っている。
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一
激しく弾雨(たま)が降り注ぎ
オレンジ浜を血で染めた
強兵(つわもの)たちはみな散って
ペ島(じま)は総て墓地(はか)となる
ニ
小さな異国のこの島を
死んでも守ると誓いつつ
山なす敵を迎え撃ち
弾(たま)射(う)ち尽くし食糧(しょく)もない
三
将兵(ヘいし)は桜を叫びつつ
これが最期の伝えごと
父母よ祖国よ妻や子よ
別れの桜に意味深し
四
日本の桜は春いちど
見事に咲いて明日(あす)は散る
ペ島(じま)の桜は散り散りに
玉砕(ち)れども勲功(いさお)は永久(とこしえ)に
五
今守備勇士(もののふ)の姿なく
残りし洞窟(じんち)の夢の跡
古いペ島(じま)の習慣で
我等勇士の霊魂(たま)守る
六
平和と自由の尊さを
身を鴻(こな)にしてこの島に
教えて散りし桜花
今では平和が甦る
七
どうぞ再びペリリューヘ
時なし桜花(さくら)の花びらは
椰子の木陰で待ち佗(わび)し
あつい涙がこみあげる
八
戦友遺族の皆さまに
永遠(いついつ)までもかわりなく
必ず我等は待ち望む
桜とともに皆さまを
(以上、詩文引用)
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パラオには桜が無かった。だが、現地の人々は、当時未だ見ぬ桜の美しさを日本人の美徳と尊敬し、憧れの念を桜に譬えて慕ったのである。
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つぼみが膨らむ開花前の健気。咲き始める華麗さ。満開の美しさ。そして、いさぎよく散り行く誉れ。
今も珊瑚の島に眠る英霊のご冥福を心よりお祈し、小稿を捧げる。
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■ 主な関連記事:
・武士道に学ぶ
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【筆者記】
パラオ国旗の由来について、上記に引用(写真)する賛文は、パラオの人々の言葉によって、このように括られている。云く、『一万におよぶ英霊たちは私たちに、勇気と国を思う心があれば、アメリカよりも強くなれることを教えて死んだのである』と。いかなる大国にも屈しない心。勇気と国思う心の強さ。そして、いさぎよき美徳。ここに、古来より連綿と伝わる武士道の心の一端を拝する思いである。
幾多の先人の恩恵によって、今の日本の地が在り、日本に生まれ育つことができた。この感謝の念は尽きない。そして、我々が今守るべきもの、後代に伝えるべきものは何か。その明確なる答えを先人は教えている。以って、ここに国思う活動の再開を誓う。短稿にて。
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読者のみなさまにはお忙しい中、ご訪問をいただき感謝しています。ここに、新たに記事をアップさせていただけたことを有難く思います。 拙い記事に対し、有志のみなさまより、内容を的確にフォローいただくコメント、身を案じてくださるコメントに感謝します。みなさまとともに最良の国思う活動の 1年にしてまいりたく思います。
一日一日を大切に、みなさまと共に考え、真実を共有できればと願っています。事実を指摘する批判は「悪口」ではなく、真実を掘り出し、その共有のために不可欠です。また、真実の共有はすべての第一歩です。正論は真実から生まれ、良識の声は必ず力になる。辛抱強く支えてくださるみなさまに心より感謝します。再開に向け、また将来のために、どうか末永き応援を宜しくお願いします。
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2007/05/18 00:00 カウンター設置 (ブログ再始動の翌年に設置。数値はPCカウントのみ累算です。機能上、携帯アクセスはカウントされていない状況です)
Author:博士の独り言
震災のお見舞いを申し上げます
平成23年3月11日、東北、北関東太平洋沖を震源として発生した東日本震災により、甚大な被害に遭われた被災地のみなさまに心よりお見舞いを申し上げます。
震災の犠牲になられた方々のご冥福を心よりお祈り申し上げ、被災地の早期復興と、被災者のみなさまが一日も早く生活と安寧を取り戻されることを心よりお祈りいたし、国家の恢復を念願いたします。
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みなさまにはお忙しい中、日々新たなご訪問をいただき感謝します。特殊政党とカルトに騙されない、毅然とした日本を築いてまいりましょう。「博士の独り言」は、いかなる組織、団体とも無縁の日本人発行の国思うメルマガ、およびブログです。
ブログ命名の「独り言」の意味には、ごく普通の日本人の独りが、ごく当たり前のことを自らの言で書く、との意味を込めています。この意義をもとに、特定国からパチンコ、カルト、政党、メディアにいたるまで、それらの国害という「国害」を可能な限り網羅、指摘してまいりました。ゆえに、(=イコール)これらの応援を一切受けず、ごく普通の、私と同じような立場のみなさまから応援いただいて来た国思う諸活動に他なりません。
「個」の足場の弱さはありますが、たとえ困難や不当な圧力に遭おうとも、絶えず前へ進み、一日一日を大切に、みなさまと共に考え、真実を共有できればと願っています。
事実を指摘する批判は「悪口」ではなく、真実を掘り出し、その共有のために不可欠です。また、真実の共有はすべての第一歩です。正論は真実から生まれ、良識の声は必ず力になる。国害と指摘すべき事柄に取り組む博士の独り言に応援をお願いいたし、辛抱強く支えてくださるみなさまに心より感謝します。