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2008/06/25(水) 04:12:13 [学外講義]


 

生命の不思議

20080703002 
【野菊】正体不明の生き物
 雨の合間に庭の掃除をしていたら、変なモノがいた。最初は砂利の上に輪ゴムでも落ちているのかと思った。モノはぬめぬめ光って動いている。ナメクジだろうと目を近づけてみると、もっと細長い。伸ばせば20センチくらいあるのではないか。幅は5ミリ程度だ。落ち葉の軸で引っかけて持ち上げようとしても、こんがらがった体はほどけずに地面に張り付いている。頭らしき方から必死に砂利の中にもぐりこもうとしている。これはヒルのたぐいだろうか。子供ならおもしろがって小突き回すのだろうが、正体不明の生き物をあんまり構うと罰が当たりそうで怖い。触ったらかぶれそうだ。蚊が寄ってくるのも気になって、そのまま家に入った。イザ2008年6月25日付記事より参照のため抜粋引用/写真は「プラナリア
Wikipediaより参照のため引用
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ああ、プラナリアのことか

 表題の記事を読んで、ああ、プラナリアのことだろう、と。ふと懐かしく、子供の頃を思い出した次第。プラナリアの特徴は愛嬌が感じられる目つきにある。

 図体はゼラチン質で出来ているかに見えて、しかし、環境条件が合えば無類の繁殖力を発揮する。このけったいな生き物については、園児の頃に幼稚園の庭隅で初めて目の当たりにした。小学1年の時に、図書館の図鑑で強靭な繁殖力を持つ「プラナリア」であることを確認した。その生態の特異性から、あるいは、ひょっとして、何らかの理由によって、その由来は地球外からのものではないか、と考えた頃もあった。

 もう1つ特異な生物として、「クマムシ」の存在がある。クマムシは、水がなくても、自らを仮死状態に置いて100年以上生きることが可能。上は摂氏150度、下はマイナス200度の温度環境下でも生き延びるといわれている。大気が真空に近い状態でも生き延び、また、強い放射線を当てても死なない。たとえば、火星の環境下でも生き残れそうな、そのような印象を少年時の心に抱いたものだ。

 地球上の生物がいかに発生し、多様化を遂げたのか。その全体像の解明のためには、まだまだ「発見」が足りない。生物学は専門外だが、筆者にはそう映るのである。まだ、この地球のことでさえ、ひょっとすると、人類がこれまでに掌握し得ている知識は、未だ5パーセントも満たないのかもしれない。

 地球は、いわば、ドロドロに溶けたマグマを袋に入れた状態に等しく、そのマグマは長大な時間をかけて対流している。その袋の部分に当たる地殻は、古い地層がマグマの中に沈んで溶け込み、新たな地層は火山の噴火などによって、そのマグマの中から生成される。ゆえに、同位元素の半減期を目安にした年代測定法もまた、袋の表層のまた表層に残る、ほんのわずかな「手がかり」を測っているに過ぎないのかもしれない。それが事実とすれば、「地球」の歴史のすべてを測ろうとしても、所詮は無理な話ということになる。
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なぜ外惑星にはメタンが存在するのか

 上述の話で思い起こすテーマは、外惑星にメタンが存在する理由だ。一般に、メタンは生物由来の物質と解釈する方がごく自然だが、しかし、木星や土星、天王星、海王星に多量のメタンが存在している由来について、その解明を試みる研究がほとんどなされていない。この分野で学位を取ろうと考えておられる学生諸氏がおられれば、このメタンが存在している、その由来の研究は1つのチャンスにできるのかもしれない。

 これまでは、生物の存在は絶望的と考えられて来た外惑星の厳しい環境下で、仮初にもクマムシをもっと強靭にした微小生物や、その環境に適合して繁殖するプラナリアのようなフレキシビリティに富んだ生物の存在を仮定すれば、あるいは、メタンが現実に存在する事由を説明できるかもしれない。こうして、外の世界を研究することは、惑星研究という共通した視座の上から、マグマの袋のほんの表層しか測り得ていない「地球」を知る。その研究を補足することにもなるだろう。

 いわゆる冥王星以遠の軌道に、さらなる外惑星が発見されつつあるようだが、こうしたタイプの外惑星があと5、6個は存在するはずだ。太陽系外縁に想定されているオールトの雲まで、延々と外惑星が点在している、と。これは筆者の少年の頃からのイメージに過ぎないが、しかし、ぼんやりとして大きなガス球でしかなかった原始の太陽の、最初の外縁がオールトの雲の位置にあった、と逆考すれば、それらの外惑星の存在も十分に説明できるのである。また、系外惑星の研究においても、ごくありふれた恒星の1つでしかない太陽系の生成について、この点をよく検証してみる価値はあるだろう。

 学校で教わることは「基礎知識」「ヒント」に過ぎない。教える側にとっても同様である。憶えるだけで終わっては意味がない。大切なことは、それらをもとに、自ら事象を認識し、見抜き、あるいは論考し、事実や法則性を見出して行くことだ。事象という側面から述べれば、これは応用物理学にも、また、政治にも共通しているように思う。(第2講へつづく)
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日本は毅然とあれ! 

 



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