使い回し「前原待望論」拝考
2011/07/21(木) 11:24:03 [民主党]
今度は前原氏か
「ポスト菅にヤル気まんまん」 前原氏“とらぬ狸”の前のめり
興味深い誌面を見つけたので、小稿にクリップさせていただきたい。博士の独り言/写真は週刊文春 7月28日号誌面(P48)より資料として参照のため引用
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代表選の「政治空白」再びか
延命を続ける菅直人氏(どこぞの首相)は、退任時期をそれとなく示唆すれども、具体的な「時期」については明言していない。民主党内からはあるいは8月末に、とのガス抜き発言も“ニュース”を通じて聞こえては来るが。仮に、菅氏を同時期に退任させるとしても、一旦、そこで総選挙を問い、国民に信を問い直すスタンスは民主党政権に観られない。あわよくば、さらなる「与党」としての政権延命を謀ろうとしている。
その証左とも指摘すべき事例の1つが、またしても「政治空白」を生むであろう民主党の代表選であり、そこへ照準を合わせるかのように、再び頭をもたげて来た前原氏への「待望論」ではないか。表題も、「不祥事でわずか四ヶ月前に閣僚を辞任した議員が有力候補というということ自体、民主党政権の絶望的な状況を象徴している」と記事を結んでいる。
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自民党への秋波
復興協力を盾にするかのように、ここ数ヶ月間、前原が自民党へ送る「秋波」の様子についても一部で報じられている。そうした際、この前原氏があたかも保守系の国会議員であるかの論調がみられるが、果たして、いかがなものか。実際は、保守系に人脈を広げてはいるが、しかし、その実体は、先稿で指摘させていただいた通り、保守系と謂うよりは、むしろ、見せざる政治信条は「北朝鮮に近い」とみられる旧社会党系の民主党議員と同軌であり、日本の保守系に対する対日政治工作員とみなせば判りやすくなる。
いわば、民主党という“枠内”で、旧社会党系の議員がその正体を露呈して潰れる段になれば、その一方で、副交換的に、結果的には同等の“機能”を“発揮”して「亜」の傀儡政権のさらなる延命を謀る駒(こま)として政権内部で動く。そうした役割を“担う”存在とみなして差し支えない。すべては謂わないが、かの新進党(その前段の日本新党を含む)系出身の国会議員諸氏には、一見、わが身を保守系であるかに見せるかの偽装傾向が顕著であり、英邁に見抜くべき点がここにある。
リベラルを自称しつつ、闇法案の一部や国籍取得の容易化に熱心な政治家は、党派を問わず、以上の影響を受け、あるいは、前原氏らの流れに同化して対日政治工作員化した議員とみなせば、個々相応に怪しげな政治行動の本質が判りやすくなるのではないか。
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■ 主な関連記事:
・前原氏「在日献金」考 2011/03/05
・前原氏「汚れた献金」考 2011/03/04
・前原氏「訪朝記念写真」考 2011/02/21
・小沢待望論を斬る 2010/12/04
・隷中ゴルフ「民主4人組」考 2010/12/02
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そもそもが「使い回し」の民主党
民主党の人材の「乏しさ」を傍証するものかと拝察するが、現下の首相(=イコール)民主党代表にしても、前首相の鳩山由紀夫氏にしても、あるいは、一部で首相待望論が持ち上がったかの小沢一郎氏にしても、いずれもが順繰りに民主党の代表を務めて来た歴々である。前原氏もまた同様であり、ここで前原代表(=イコール)延命政権の首相待望論が持ち上がったとしても、“党是”の使い回しの延長線上でのイベントに他ならない。
民主党にとっては、可能な限り「首相」「閣僚」の経験者を増やしておく方が、たとえ次の総選挙で敗北するとしても、政界への“影響力”を残せる、とそう踏んでいるのかもしれないが。無能による政治的な空転、中身乏しき「ラベルの貼り替え」の政治空白の迷惑を被るのは他でもなく、日本国民である。
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【筆者記】
民主党の代表選で再び政治空白が生じるのであれば、むしろ、総選挙を実施する方が現下の理に適っている。政権交代選挙での集票のために、国民に対して示した政権公約はほぼ壊滅状態であり、その脆弱な足元を見透かすかの他国による領土侵害はその度をさらに深めつつある。同じ政権内で首相の首さえすげ替えれば“良し”とする政治ショーには、すでに多くの国民が辟易とし始めているはずだが。
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日本は毅然とあれ!
路傍にて(筆者)
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「一九八四」に観る
2011/07/02(土) 08:04:31 [国思う勉強会/新聞]
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小説「一九八四」の記憶
表現の自由。それは民主主義の象徴でもありましょう。小稿に参照する毎日新聞の記事に接し、ふと思い出す一冊があります。子供の頃に読んだ「一九八四」という近未来小説である。イギリスの作家ジョージ・オーウェル氏の筆(一九四八年)によるものです。当時のソビエト連邦を基本的なモデルとし、ナチスドイツの一面をも参考にした内容と思われ内容ですが、たとえ民主主義国家でも、その未来に陥る可能性がある「全体主義社会」の恐怖を克明に描いたストーリーが今も記憶に残っています。
ストーリーは、核戦争後の「一九八四」年に、世界は「オセアニア」、「ユーラシア」、「イースタシア」の三つの超大国によって分割統治され、各国間の紛争が絶えない状況を設定し、その中の、全体主義国家「オセアニア」を舞台としています。主人公の「ウィンストン・スミス」は 「真理省」と称する象徴に努める役人で、同省の役割は、「オセアニア」が唯一「正統」な国家であることを国民に自宣することを使命としています。核戦争後も実存している「過去」の新聞、雑誌記事や刊行物など、文字として残っているものを絶えず調査し、「オセアニア」のプロパガンダに都合が悪い記述が見つかれば完全消去する。あるいは、都合良く書き換える「職務」を日夜負わされています。
しかし、主人公は、過去の記事や文献を当たるうちに、国家のそのやり方に疑問を抱き始めます。
気の合う同僚や、省庁の官僚に、ふとその疑問を打ち明けるようになります。その相手も主人公の疑問に理解を示すようになります。心情を同じくするかの、美しい女性にも出会い、恋愛関係に陥る。その女性と逢瀬を重ねるたびに、その心情の"共有"は深まる、というロマンスも描き込まれています。しかし、ある日、密会現場へ突入した当局の人物らにその女性とともに逮捕拘束され、国家反逆者として激しい拷問にかけられることになります。
その拷問を指示する側の人物の一人が、以前に信頼して心情を打ち明けた官僚であり、その時に、同じく心を打ち明けた同僚も密告者であったことに主人公が気づきます。さらに、恋愛相手であったはずの女性もその脇で主人公を観ている。実は女性スパイであり、主人公に逢瀬の場所を秘密裏に提供していた骨董屋の主人も当局の人物であった、というどんでん返しがストーリーのクライマックスになっています。
主人公は、最後に処刑されることになりますが、いわば、疑問を打ち明けた人、相談した人、さらに恋愛対象であったはずの女性まで、そのすべての人物が「個」の圧殺の「罠(わな)」であった、という展開に、子供心ながら恐怖を覚えました。その頃は、近未来小説との印象が強かったのですが、しかし、その後、ソビエト連邦や中華人民共和国の実情を知るにつけ、この一冊は、単なる小説ではなく、未来への警告ではないか、と感ずるようになったのです。
もう一度、読み返したのは学部生の時分でした。メディアにも疑問を抱くようになったのもその頃からで、その疑問が膨らみながら現在にいたっています。
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メディアが謳う「表現の自由」の欺瞞
参照する紙面(資料内で参照の紙面)では、毎日新聞が、メディアに対する個人訴訟が増えつつある現状を憂い、「表現の自由」の懸念について記している記事に映ります。確かに、毎日新聞にもこうした記事を書く自由はあり、その自由は保障されるべきでしょう。
しかし、実態に事即して観れば、果たして、どうなのか、との疑問を呈さざるを得ません。先年の、多年にわたる、後始末無き膨大な変質記事の垂れ流しや、捏造とおぼしき不可解な記事の連発や不祥事など。「表現の自由」以前のレベルで、同紙に問うべき社会的責任は大きいのではないかと拝察する一人です。
この紙面の数日前に同紙による、「ライブドア」ニュースに対する言論圧力があったこともご記憶の方は少なくないことかと思います。当該の、ライブドアニュース(同年四月二十八日付)には、こう記されています。「ポータルサイト「ライブドア」のニュース欄トピックス上に掲載される毎日新聞への批判記事について、毎日新聞側がこれまで複数回にわたり、ライブドアに対してトピックスへの掲載を中止するよう圧力をかけてきたことがこのほど、PJニュースの取材で明らかになった」と。今日も「表現の自由」を謳う毎日新聞が、他のメディアに「言論弾圧」をかけるとは。一体、何を考えているのでしょうか。さらに、「独立したメディアの編集権を侵害するという、報道機関としてはあるまじき毎日新聞の言論弾圧体質が浮き彫りになった」(同ニュース)とありました。
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民主党が「メディア規制」を外した事由
その図式が事実とすれば、たとえば、「信教の自由」を盾(たて)にしながらも、他の「信教の自由」を許さないカルト教団ともよく似ています。圧力のかけ方も似ており。否、似ていると謂うよりは、もはや、広告主であるカルト教団とメンタリティが同化している、との実態を指摘する方が適切かもしれません。
本来、「言論」の尊厳をも守るべき公器という社会的立場にありながら、しかし、都合悪しとみた存在に対しては弾圧、消去にかかる。こうした実態が蔓延するようなことになれば、上記の「一九八四」に描かれた全体社会の恐怖と共通したものに違いありません。
メディアが公権力の側に立ち、言論統制に加担するという危惧をも、言論封鎖へ動静の中で抱かざるを得ない事例の一つ、近未来への兆候の一つと指摘できます。さらに、民主党案出のいわゆる「人権侵害救済法案」が、メディアを規制の対象外と置いている事由の本質を窺い知り、その新たな危惧を否めないのは私だけでしょうか。あらぬ動静に断固として対峙してまいる所存です。
(以上、平成二十年五月三日の小稿をもとに、平成二十三年六月二十五日の国思う勉強会の後段にて)
理工系による村山談話検証委員会、ならびに日本防衛チャンネル
座長・島津 義広
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■ 掲載資料:
・「一九八四」に観る 平成23年6月25日勉強会参考資料
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■ 主な関連記事:
・報告「言論封鎖の動静を斬る」勉強会 2011/06/25
・中国「陳情制度」と民主党 2009/12/06
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日本は毅然とあれ!
路傍にて(筆者)
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