2009/04/29(水) 16:36:25 [創価「あの事件」も]

創価学会信者による殺人・死体遺棄事件
逃げ切れなかった被告

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殺害27年後も賠償責任 最高裁 除斥期間適用せず
 東京都足立区立小学校で昭和53年、教諭の石川千佳子さん=当時(29)=を殺害して遺体を自宅に26年間隠し、殺人罪の時効成立後に自首した同小の元警備員の男(73)に、遺族が損害賠償を求めた訴訟の上告審判決で、最高裁第3小法廷(那須弘平裁判長)は28日、警備員の男側の上告を棄却した。男に約4200万円の賠償を命じた2審東京高裁判決が確定した。産経新聞記事(切り抜き)4月29日朝刊(24面)よい参照のため抜粋引用/写真は同ニュースを伝えるFNNニュースWeb)4月28日付記事より参照のため引用

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タカを括る被告に下された鉄槌

 先年の小稿で、この創価学会信者による殺人・死体遺棄事件について、「時効」で逃げ切れる、と開き直ったかのような、犯人のおぞましいメンタリティについて指摘した。最高裁(2審)判決がどう出るか。その動向が注目されていたが、表題では、犯人に対する賠償命令の確定が伝えられている。同判決について、同事件のあらましを含めて、表題に参照する紙面ではこう記している。云く、「判決などによると、男は昭和53年、警備員として務めていた学校で石川さんを殺害、遺体を足立区内の自宅床下に埋めて住み続けた。区画整理で立ち退きを迫られたことから、平成16年に自首。しかし、当時15年だった公訴時効の成立で起訴されなかった」と。区画整理が理由とはいえ、当時の、犯人の自首は、「時効」を見込んでことであった。

 また云く、「遺族が提訴したのは殺害から約27年後の平成17年。不法行為から20年で損害賠償請求権が消滅する「除斥期間」が適用されるかどうかが争点だったが、同小法廷は「死亡を知り得ない状況をことさら作り出した加害者が賠償義務を免れるのは、著しく正義、公平の理念に反する」と判断、除斥期間を適用しなかった」とある。すなわち、被告は、自らが殺害した女性の遺体を自宅床下に埋めて隠匿し、被害者女性の「死亡を知り得ない状況」を26年間も造り出していた。それゆえ、時効に対して、その歳月を「排除」するには値しない、との判断を下し、「男に約4200万円の賠償を命じた2審東京高裁判決が確定」、との判決が下ったのである。いわば、「時効」を盾に、逃げ通せるものとタカを括っていた被告に、鉄槌が下った判決と認識出来よう。

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産経新聞記事(切り抜き)4月29日朝刊(24面)
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「絶対に謝らない」

 同被告の、同判決後の心境に触れるかのような、FNN(表題)が興味深い記事を配信している。云く、「男は判決後も、取材に対し「絶対に謝らない」と話している」と。続けて、「28日、FNNの取材に応じた男は「謝れと言われても、謝る気はありません、まったく。冗談じゃないと」、「(事件後どんな気持ちで過ごしてきた?)もう、できるだけ考えないようにしてました。(事件の時は)かっとしちゃったんですよね。このやろうと思っちゃって」と話した」とある。そもそも、同事件は殺人事件に他ならない。その視点から考察すれば、「時効」を見越しての自首(2004年)それ自体にも、当人の呵責の念の乏しさが読み取れる。そして、ここへ来ても、このような心境を語って居直る、とあれば、とても正常な神経ではない。否、異常そのものである。

 表題は、「「逃げ得は許さない」という最高裁の判断は、今後の民法上の時効をめぐる論議に影響を与えるとみられる」と記しているが、おりしも、世田谷一家殺人事件の遺族の声をもとにした、殺人事件の「時効」は廃止すべき、との議論もある最中にある。「時効」を盾に、罪の遡及(そきゅう)から逃れるかの、無責任な「逃げ得」は許さない、とした同判決には、今後の「先例」となる重みがあるのではないか。ここに、先稿で紹介した、同被告は創価学会信者であると示す、「新潮45」(2007年3月号)の記事がある。同誌面には、このようなくだりがある。云く、『創価学会の信者である男は、教職員組合に加入している共産党員の先生方から、弁当に睡眠薬や毒物を入れられたり、有毒ガスを撒かれたりする数々の嫌がらせを受けた、と主張している。こうして苦しめられてきた自分だからこそ、石川先生の殺害は仕方がない、と言いたいようなのだ』と。これが、被告の殺害動機とすれば、稚末に過ぎはしないか。妄想の域を出ないものであろう。

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新潮45記事(写真)2007年3月号(P248)(傍線は筆者)
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 この果てなき妄想の末、他人を殺害した、と。それが事実であれば、かの、オウム真理教信者の妄想にも共通した病理と指摘できよう。被告が信じる創価学会も、オウムと同様の「カルト」とみなすべき要素がここにある。もう1つの共通点は、やはり、他人の命を奪っても「罪」と感じ得ない病理だ。先稿で触れた、「吉展ちゃん誘拐殺人事件」の犯人・小原保も創価学会の信者であった。すでに命を奪った吉展ちゃんに対しては「罪の意識」のかけらも感じることなく、遺体を遺棄している。それでいながら、受け取った「身代金」を仏壇に供え、大金が手に入ったのは「功徳(ご利益)」だとして、“感謝”の祈りを捧げたという。この異様な行動にに、「時効」で逃げる被告(上記)と共通した心理が窺える。

 殺された方が悪い。自分は被害者だ(要旨)と開き直る被告・和田信也にも、自らが犯した「罪」に対する反省は無い。これは、他の創価学会の信者が手を染めた殺人事件にも共通した「姿」として映るのは筆者だけだろうか。そもそも、この人命感覚の消耗、欠落は、オウム真理教の「ポア」の発想にも似ており、カルト宗教に共通したおぞましい病理である。また、上記のように、凶悪犯の正体を、ようやく一部の誌面が遠慮がちに報じる傾向があるが、通名報道の廃止と同様に、凶悪事件であるほどに、心あるメディアがあれば、堂々と、犯人のその正体を明かすことが、不特定大多数の国民への、犯罪防止に資する周知となり得るであろうことは指摘するまでもない。
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■ 主な関連記事:

創価「殺人事件」か 2 2007/12/09 
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【筆者記】

 連休中には、創価学会信者が、何年、何十年ぶりかに、投票依頼のために尋ねて来るケースもあるのかもしれない。2人組、3人組でやって来るケースもあるようだ。だが、まったく相手にする必要はない。勝手にやって来る押し売りと同じだ。ドアを開ける必要は無い。ドアを開けさせるために、「トイレを貸してくれ」と云うケースもあるそうだが、そもそもが、応対する必要も無い。まさに、上記に記す逃げ得、身代金収奪を「ご利益」とするかの病理は、この、政教一致の何が悪い、とするかの「病理」の延長線上に在るのである。以上、記事を参照し、雑感ながら小考を報告する。
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